藤村孝益は、村田蔵六(大村益次郎)の実父。

書簡紹介します。

内田伸先生の『大村益次郎文書』に載っていますが、だれも内容がわからないから放置されています。

 

この世に、私しか大村益次郎研究家はいないので、解説します。

 

○安政五年二月三日  藤村孝益より (『文書』185)

 

 弥御安康の由、珍重に存候。

 此方向も無別条罷過由候間、御安意可被下候。

 

 昨年は書面も怠り、亦差越候も不埒に及候て、御案被成候段、渡辺よりも承知致候。

 今年よりは、毎時差出し可申候。

 其方よりも、御送り可被下候。

 

 宮市駅迄相届き候得は、夫よりの賃銭は此方より相調可申候。

 昨年御送の請取、別紙の通り御引合可被下候。

 

 先は時気御保養専一に存候。頓首。

 

  二月三日

  尚々、拙者儀も追々気分宜敷候故、一両年は御気遣有之間敷候。

  尚また扶持方御送り被下候故、別て安楽に罷過候間、萬々御気に被懸間敷候。 已上。

                       孝益

  蔵六様

 尚また送り金の儀は不埒無之様撫育仕、組立追々可申進候。已上。

 

{解説}

文中の「渡辺」は、おそらく渡辺源左衛門。鋳銭司の人。

 

「宮市」は、現防府市。交通の要衝地で、ここまでは江戸からの書簡は届いても、僻地の鋳銭司までは別料金がかかるので、三田尻~鋳銭司の郵送料はこちらが出します。と言っているのです。

 

 

 

 

 

 

〇「幕末維新の仕事師 村田蔵六―大村益次郎」

  第一章 1 出自

 

 

  

 

 

 

※現在では、山田がなぜ大村の生誕日を「文政7年3月10日」としたのかは、筆者は解明できています。

 

 

 

 

 

〇木戸孝允と大村益次郎の東北処分案

 

 大村と木戸の間で、東北(特に仙台・会津)処分案は、なかなか一致しなかった。

 ごく簡単にいえば、大村は、「仙台厳罰、会津寛典」、木戸は逆に「会津厳罰。仙台寛典」だったといえる。

 

 大村は、東北全体が戦場になった責任は、仙台藩にあると厳しかった。

 岩倉具視あての書簡(時日不明)に、 

「仙台、初め会津追討の命を蒙り、其儀無之、却て賊会に徒与し於奥羽大録(ママ)食ひ賊を助るの盟主と相成候事、言ふを俟すして明白たり。罪最も大ひなり。」(『岩倉具視関係史料』)

とある。

 これに対して木戸は、「そもそも会津の存在があったから、仙台問題が起きた」と思っていた。

 木戸は、大村への書簡で、三つに分けて説明している。

 

「愚按には、とにかく仙も可悪の賊に御座候えども、張本は会にて、積年の罪情天下の所知。

 終に数万の王師を起し候も、必竟は是に帰し申候。依て第一罪魁なり。

 仙米は、百五六十日前よりの次第、実に可悪の訳(至カ)に御座(ママ)えども、是迄は善も悪もなし、心事を推ば其出るところ、迷憫よりなり。其罪第二也。

 その他小藩等は、力の不及して組せしものにして脇従なり。其罪第三なり。」(十月四日付)

 

「仙も可悪の賊に御座候えども」という文章から、大村が木戸に「仙台が一番罪が重い」と主張していことが伺える。

 

 木戸は、会津藩には「積年の罪情」があるというが、大村はその「罪状」そのものに同情的だったのだ。

 有栖川宮に、

「(会津藩は)実に朝敵ではあるけれども、さて会津といえどもやはり幕府のために敵するので、決して一己の私のために賊を働いたという訳でもない。(中略)はなはだ気の毒なことに思います」

 と言っていた(加茂水穂談話)という。

 

 会津は、立場上幕府の楯になり、政治的に敗れたに過ぎないことを理解していた。

 しかし、仙台は、自分の意思で新政府に対抗しようと画策し、東北全体を巻き込んだのだから、その責任は会津より重いと思っていたようだ。

 

 

 

〇明治2年3月10日時点の外国公使館

 

東京府内各国公使館其外宿寺等 

 

一   英吉利公使館     三田聖坂上 元土岐集人正邸

一   仏蘭西公使館      同所 済海母

一   亜米利加公使館  麻布 善福寺

一   和蘭公使館         伊皿子坂脇 長応寺

一   孛漏生公使館      麻布 春桃院

一   瑞西公使館         三田台町泉寺

一   伊太里公使館      同聖坂 功運寺

 一  白耳義公使館      麻布古川 光林寺

 

京都 米国シツトホール旅館当時英人アヂムス門良院

但当時同人義ハ、英国サトウ旅館ヘ合宿ニ付、空館ニ相成居候事

 

〇ウイキの「英国公使館の記事」

日英修好通商条約締結の翌年にあたる1859年7月6日安政6年6月7日)、ラザフォード・オールコックにより高輪東禅寺に英国総領事館が開設された。

オールコックの公使昇進により、領事館は公使館となった。

しかしながら、2度の東禅寺事件により公使館員が殺傷されたため、公使館は横浜に移った。

 

その後江戸幕府は、英国を含む五カ国に対して建設費の1割を年賃貸料とすることで公使館を品川御殿山に建設する約束を交わした。

オールコックはスケッチ案[1]を幕府作事方に提示し[2]、普請は順調に進んだが、完成直前の1863年1月31日文久2年12月24日)に高杉晋作らによる焼き討ちにあってしまった(英国公使館焼き討ち事件)。

 

2代目公使ハリー・パークス泉岳寺前に仮公使館を残しながら、横浜に公使館を移すことにし、1866年になって横浜外国人居留地の技師のブリジェンスに横浜仮公使館と領事館の設計を依頼した。

 

1867年に、英国政府は極東在外公館施設建物の本格的営繕のため工兵ウィリアム・クロスマン少佐 (William Crossmanを派遣し、クロスマン少佐の修正案により横浜公使館と領事館が完成した。

 

また、クロスマン少佐の提案により上海に英国工務局分所が置かれることになり、同事務所により極東における英国公館建築の継続的営繕が行われた。