〇明治2年3月10日時点の外国公使館
東京府内各国公使館其外宿寺等
一 英吉利公使館 三田聖坂上 元土岐集人正邸
一 仏蘭西公使館 同所 済海母
一 亜米利加公使館 麻布 善福寺
一 和蘭公使館 伊皿子坂脇 長応寺
一 孛漏生公使館 麻布 春桃院
一 瑞西公使館 三田台町泉寺
一 伊太里公使館 同聖坂 功運寺
一 白耳義公使館 麻布古川 光林寺
京都 米国シツトホール旅館当時英人アヂムス門良院
但当時同人義ハ、英国サトウ旅館ヘ合宿ニ付、空館ニ相成居候事
〇ウイキの「英国公使館の記事」
日英修好通商条約締結の翌年にあたる1859年7月6日(安政6年6月7日)、ラザフォード・オールコックにより高輪東禅寺に英国総領事館が開設された。
オールコックの公使昇進により、領事館は公使館となった。
しかしながら、2度の東禅寺事件により公使館員が殺傷されたため、公使館は横浜に移った。
その後江戸幕府は、英国を含む五カ国に対して建設費の1割を年賃貸料とすることで公使館を品川御殿山に建設する約束を交わした。
オールコックはスケッチ案[1]を幕府作事方に提示し[2]、普請は順調に進んだが、完成直前の1863年1月31日(文久2年12月24日)に高杉晋作らによる焼き討ちにあってしまった(英国公使館焼き討ち事件)。
2代目公使ハリー・パークスは泉岳寺前に仮公使館を残しながら、横浜に公使館を移すことにし、1866年になって横浜外国人居留地の技師のブリジェンスに横浜仮公使館と領事館の設計を依頼した。
1867年に、英国政府は極東在外公館施設建物の本格的営繕のため工兵ウィリアム・クロスマン少佐 (William Crossman) を派遣し、クロスマン少佐の修正案により横浜公使館と領事館が完成した。
また、クロスマン少佐の提案により上海に英国工務局分所が置かれることになり、同事務所により極東における英国公館建築の継続的営繕が行われた。