〇木戸孝允と大村益次郎の東北処分案

 

 大村と木戸の間で、東北(特に仙台・会津)処分案は、なかなか一致しなかった。

 ごく簡単にいえば、大村は、「仙台厳罰、会津寛典」、木戸は逆に「会津厳罰。仙台寛典」だったといえる。

 

 大村は、東北全体が戦場になった責任は、仙台藩にあると厳しかった。

 岩倉具視あての書簡(時日不明)に、 

「仙台、初め会津追討の命を蒙り、其儀無之、却て賊会に徒与し於奥羽大録(ママ)食ひ賊を助るの盟主と相成候事、言ふを俟すして明白たり。罪最も大ひなり。」(『岩倉具視関係史料』)

とある。

 これに対して木戸は、「そもそも会津の存在があったから、仙台問題が起きた」と思っていた。

 木戸は、大村への書簡で、三つに分けて説明している。

 

「愚按には、とにかく仙も可悪の賊に御座候えども、張本は会にて、積年の罪情天下の所知。

 終に数万の王師を起し候も、必竟は是に帰し申候。依て第一罪魁なり。

 仙米は、百五六十日前よりの次第、実に可悪の訳(至カ)に御座(ママ)えども、是迄は善も悪もなし、心事を推ば其出るところ、迷憫よりなり。其罪第二也。

 その他小藩等は、力の不及して組せしものにして脇従なり。其罪第三なり。」(十月四日付)

 

「仙も可悪の賊に御座候えども」という文章から、大村が木戸に「仙台が一番罪が重い」と主張していことが伺える。

 

 木戸は、会津藩には「積年の罪情」があるというが、大村はその「罪状」そのものに同情的だったのだ。

 有栖川宮に、

「(会津藩は)実に朝敵ではあるけれども、さて会津といえどもやはり幕府のために敵するので、決して一己の私のために賊を働いたという訳でもない。(中略)はなはだ気の毒なことに思います」

 と言っていた(加茂水穂談話)という。

 

 会津は、立場上幕府の楯になり、政治的に敗れたに過ぎないことを理解していた。

 しかし、仙台は、自分の意思で新政府に対抗しようと画策し、東北全体を巻き込んだのだから、その責任は会津より重いと思っていたようだ。

 

 

 

〇明治2年3月10日時点の外国公使館

 

東京府内各国公使館其外宿寺等 

 

一   英吉利公使館     三田聖坂上 元土岐集人正邸

一   仏蘭西公使館      同所 済海母

一   亜米利加公使館  麻布 善福寺

一   和蘭公使館         伊皿子坂脇 長応寺

一   孛漏生公使館      麻布 春桃院

一   瑞西公使館         三田台町泉寺

一   伊太里公使館      同聖坂 功運寺

 一  白耳義公使館      麻布古川 光林寺

 

京都 米国シツトホール旅館当時英人アヂムス門良院

但当時同人義ハ、英国サトウ旅館ヘ合宿ニ付、空館ニ相成居候事

 

〇ウイキの「英国公使館の記事」

日英修好通商条約締結の翌年にあたる1859年7月6日安政6年6月7日)、ラザフォード・オールコックにより高輪東禅寺に英国総領事館が開設された。

オールコックの公使昇進により、領事館は公使館となった。

しかしながら、2度の東禅寺事件により公使館員が殺傷されたため、公使館は横浜に移った。

 

その後江戸幕府は、英国を含む五カ国に対して建設費の1割を年賃貸料とすることで公使館を品川御殿山に建設する約束を交わした。

オールコックはスケッチ案[1]を幕府作事方に提示し[2]、普請は順調に進んだが、完成直前の1863年1月31日文久2年12月24日)に高杉晋作らによる焼き討ちにあってしまった(英国公使館焼き討ち事件)。

 

2代目公使ハリー・パークス泉岳寺前に仮公使館を残しながら、横浜に公使館を移すことにし、1866年になって横浜外国人居留地の技師のブリジェンスに横浜仮公使館と領事館の設計を依頼した。

 

1867年に、英国政府は極東在外公館施設建物の本格的営繕のため工兵ウィリアム・クロスマン少佐 (William Crossmanを派遣し、クロスマン少佐の修正案により横浜公使館と領事館が完成した。

 

また、クロスマン少佐の提案により上海に英国工務局分所が置かれることになり、同事務所により極東における英国公館建築の継続的営繕が行われた。

 

 

 

 

 

〇「捧げ銃土下座」逸話は、四月六日の大阪天覧ではない

 天皇は、三月二十三日から閏四月七日まで、五十日、大阪に滞在した。その間。四月六日に大阪城内において、陸軍調練ならびに砲術操練を叡覧あらせられた。

 この時、大村が窮した出来事があったという。それは銃隊動作「捧げ銃」が、天子の前で立ったまま行うのが不敬であると公家衆からクレームがついたというものである。大村は抵抗したが、結局は折れて銃を持って土下座するという始末になったというものだ。

 そういうことがあったかもしれないが、それはこの時期ではない。なぜなら、この逸話を語っているのは、船越衛(洋之助)だからである。船越は、

「そのときは私なども立礼をするということは悪いだろうというた。(大村から)汝たちまでそれだからいかぬといわれたが、後から考えると、なるほど先生困ったろうと思う」

「そのときは、私も叱られた」

などと言っているから、これは船越の面前での出来事だ。

 

 だが、広島藩士船越が新政府に仕えたのは、この年の五月十一日に「江戸府判事」に任ぜられたのが初めてで、大村の部下になったのは、五月二十四日に「軍務官権判事」に任じられてからだ。

 四月六日の大阪での天覧儀式に大村の部下として参加しているはずがないのである。

〇女囚解剖記事 

 

 

村田蔵六の本来の生業は医者であり、特に解剖は得意とするところ。

生涯で二度人体(女性)を解剖したとされる。

一度目は、「安政六年(一八五九)十月に江戸小塚原」においてとされる。

 

これ、医学界で年表レベルで信じられているのですよ。

ヤバいですねー。

 

古くは『中外医事新報』一一七八号(昭和六・一九三一)所収の澤弌「醫學者としての大村兵部大輔」。

 

『増補医事大年表』(中野操・一九七二。思文閣)では、この解剖記事が年表に記載されている。

 

近年では、深瀬泰旦「日本医学雑誌」『江戸幕府寄合医師添田玄春の医学と医療』(「日本医学雑誌」第六十巻第三号・二〇一四)

 

 

深瀬泰旦は「日本医学雑誌」『江戸幕府寄合医師添田玄春の医学と医療』という論文で、

 

「添田玄春日記」安政六年十月六日の記事に、

「早朝との様こつか原へふわけに行、御供貞三行、夜に入帰」

とある記事から、

「玄春が小塚原でみた腑分けは、(略)村田蔵六の腑分けであることは間違いない。在来から十月であることは明かであったものの、その日となるとまったく不明であったが、この添田日記によって、それが安政六年十月六日であることを明らかにできた」

 

と書いているが、無茶やな。

「添田玄春日記」には、婦人の解剖とも村田の執刀とも書いておらず、「十月」の一点だけで断言していいのですか?

 

村田蔵六の解剖は、安政六年ではないのです。

 

 

 

 

 

 

〇大村益次郎、泣く

 

大村益次郎は、他人への評価が厳しい人だが、緒方洪庵への敬慕は、相当なものがあったようです。

 

明治初年、大村氏京都に在らるる砌り、大附に洪庵未亡人たる祖母を、多忙中わざわざ訪問致され、久振の対にて、昔話に時の移るを知らざりしが、祖母の居間の隅に、版木の高く積みあるを見て、これは何本の版木かと尋ねられ、夫生存中、最も力を込めて著述したる「扶子経験遺訓」の版木なる由を告げたるに、黒く刷り減らしたる古き版木を数枚取り上げ、つくづくと打眺めて、沛然と熱き涙をながし、額を得挙げず、打伏してこれを拝し、恩師の遺徳をしのばれたり。

 軍事多端の折柄、特に昔を忘れず、身を卑うして、訪ひ来られしさへ、嬉しき極みなるに、この誠実なる態度に接し、感極まり、互に相擁して泣きたり云々。