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大学院行ったのに年収300万円

06年冬。柏市に住む30代の派遣社員の男性が派遣先の研究所に出勤し、自分のパソコンを開くと、派遣元の担当者からメールが届いていた。

 「6カ月で(契約を更新していく)とのお話でしたが、今回は3カ月更新でお願いしたいとの事です」

 その直前に当初3カ月ごとだった契約の更新期間を2倍の6カ月にすると会社側が約束していたが、突然撤回された。メールに書かれた言葉は5行しかなかった。

 「物を注文する時でさえ期限を事前に確かめる。派遣の自分は消耗品なんだな。いや、それ以下なのか」

 悔しさとあきらめが胸にこみ上げ、気分が重くなった。
     ◇
 私立大学の理学部と国立大学の大学院で学んだ男性は、化粧品会社に正社員として就職。船橋市のプラスチック成形会社に転職し、約7年間勤めた。特許を取り、国の補助
金事業も手がけた。しかし、会社は取引先とのトラブルで廃業。職を失った。

 06年4月、研究開発ができる人材などを派遣する中堅派遣会社に登録した。大手企業の研究所で働く知人の紹介で所長と面接したところ、「働くなら派遣で」とこの派遣会社の名前を挙げたという。

 時給は1600円、年収は約300万円と以前の半分以下。派遣会社が「仮条件」と言ってきたため、「後で交渉できるだろう」と思った。

 仕事は正社員並みで高額な設備を購入する際、業者との交渉に自分が当たることもあった。しかし、時給の交渉には応じてもらえなかった。

 昨年春、通勤途中で突然息が苦しくなった。初めて心療内科に行き、「適応障害」と診断された。やむを得ず休職を申し出ると、派遣元の担当者は「契約を解除したらどうか」と迫った。職を失えば、傷病手当がでなくなる。一方、会社側の負担は軽くなる。男性は「人間の考えることだろうか」と言った。
     ◇
 総務省の労働力調査によると、派遣社員やパートなど非正規雇用労働者の数は年々増え続け、07年に1700万人を突破した。一方、正規労働者は97年の約3800万人をピークに07年は約3400万人に落ち込んでいる。

 背景には90年代以降に進んだ「規制緩和」や「自己責任」を掲げる新自由主義的な改革がある。経済の長期低迷の下で企業は激しいリストラを進め、正社員を非正社員に置きかえて人件費を削る動きが急速に広がり、労働規制の緩和もそれを可能にした。

 いま、1人でも入れる労働組合「なのはなユニオン」(千葉市)に、派遣労働者からの相談が絶えない。

 鴨桃代委員長は「『多様な働き方』をタテに、企業は労働者に対して責任を取りたくない。労働者はますます不安定な働き方に追い込まれている」とため息をついた。

 法で認められた最長3年の契約期間終了後も、所属先を別部署に替え、同じ仕事をさせられていた派遣社員が相談に来たという。直接雇用にするよう会社と交渉している。

 ヨドバシカメラで派遣社員が正社員から暴行を受けた事件で代理人を務めた笹山尚人弁護士は「労働者派遣法や労働基準法が必ずしも守られてはいない状況を十分検証せずに、国は安易に規制緩和を進めた」と話す。

 「憲法が働く義務だけでなく、権利を保障した意味は何なのか。人は誰でも、尊厳を守られながら、自己実現でき、喜びがあふれるような環境で働く権利があるのです」
     ◇
 柏市の男性は今も休職中だ。何社か面接を受けたが、就職先が決まらない。家賃5万円と生活費は、傷病手当と切り崩した貯金でまかなうが、契約が解除されればいずれ生活が立ちゆかなくなる。

 「まさかホームレスになってしまうかもしれない、と考える時が来るなんて思いもしなかった」。悩みは深い。(丸山ひかり)
          ◇        ◇        ◇
 労働者派遣事業 自分が雇用する労働者を、派遣先の指揮・命令のもとで派遣先のために働かせる事業。職業安定法は間接的に人を働かせることを禁じていたが、86年施行の労働者派遣法で派遣事業が認められた。当時は正社員を派遣に置き換えることを防ぐため、派遣対象業務は専門的知識・技術が必要な13業種に限られた。しかし、その後は規制緩和が進み、96年には26業種に拡大。99年には製造業や建設業などを除いて原則自由になり、04年からは製造業への派遣もできるようになった。

朝日新聞 2008.5.2

http://mytown.asahi.com/chiba/news.php?k_id=12000460805010002

細切れ雇用の果て 39歳、全財産100円

「恥ずかしながら、これが私の全財産でして」

4月15日夜、東京・飯田橋近くのNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」。男性(39)は財布の中身を見せて、うなだれた。財布には小銭ばかりで100円ほど。前日に古本屋で本を売った400円の残りだ。飯田橋までの電車賃もぎりぎりだった。都内の電気工事会社の下請けで働くこの男性は、生活困窮者を支援する「もやい」に助けを求めていた。

「いつお金が入りますか」

「4月18日です」

「いくらぐらい?」

「たぶん、3万~4万円」

「その額でいつまで」

「次の給料日は5月20日」

「それじゃあ、苦しいですねえ。どうしますか」

「18日までしのげれば、アルバイトでなんとか……」

1万円を工面してもらい、米5キロと缶詰5個をもらってしのぐことになった。両親は年金暮らしで頼れない。

「本当にお恥ずかしい。仕事を探しながら働く繰り返しで、失業保険も貯金もないものですから……」。何度も頭を下げてはお礼を言った。

 男性は99年、都内の私立大学を卒業した。浪人と留年を重ね、このとき30歳。就職氷河期まっただ中だった。派遣労働者として働きながら、就職活動を続けたが決まらない。派遣会社10社以上に登録し、契約が切れると清掃業務や建設作業などで食いつないだ。たまに採用されても契約社員扱い。細切れ雇用の全部は本人も思い出せない。そのうち面接で「どうして職をそんなに転々としているのか」と聞かれるようになった。これまで60社以上の面接を受けたが、正社員への壁は高くなるばかりだ。いまは工事で余った廃材の片づけなどをする仕事。正社員を希望したが、半年間の契約社員。日給1万円、翌月払いだ。3月下旬に入社し、3月は5日間働いた。

 ところが、4月18日の給料日、3月分の給与明細を見てがくぜんとした。手取りはたったの2万1814円。健康保険料9456円、厚生年金保険料1万7995円、雇用保険料735円が天引きされていた。

 これでは家賃3万200円にも足りない。日雇い派遣大手のフルキャストを通じ、夜も仕事を始めた。

 午後5時に仕事が終わると、すぐ派遣先の倉庫へ。6時半から10時まで、ベルトコンベヤーに追われながら荷物の積み込み作業。時給は1千円。一晩で3500円にしかならない。

 くたくたでアパートに帰る。倉庫の仕事を始めた初日、1回430円の銭湯は高いのであきらめた。部屋は4畳半一間の風呂なし共同便所。布団はなく、2枚の毛布の間に入って眠る。

 2日続けたが、3日目に会社を休んだ。ダブルワークで疲れ切った。数少ない楽しみの携帯電話代1万1千円の支払期限で憂うつでもあった。翌日が、会社に昼の弁当代の3月分2千円を支払う日だったことも気分をめいらせた。

 翌朝。通勤途中、スーツ姿のサラリーマンたちが足早に彼を追い抜いていく。まもなく40歳になる。その数カ月後には、雇用契約の更新時期がまたやってくる。

 「やっぱり、私のような人間では駄目なんです。ピシッとスーツを着て、ライフステージを踏んできましたって胸を張れないと、正社員にはなれない。そういう厚い壁を感じてしまいます」

 男性はたびたび、自分のことを「私のような人間」と呼んだ。まじめに働いても、30歳で大学を出たというだけで貧困から抜け出せない。広がる「ワーキングプア(働く貧困層)」。1年間働いても200万円以下しか収入がない人は、06年に1千万人を超えた。

朝日新聞 2008.4.30

http://www.asahi.com/life/update/0430/TKY200804290254.html

博士の就職難問題 企業との溝、埋まらず

大学院で博士号を取得し、深い専門知識を身に着けながら、安定した職につけないケースが増えている。7月の参院選公約で、この問題を取り上げる政党が現れるなど「博士の就職難」がようやく社会的に認知され始め、大学や学会の進路支援も本格化してきた。しかし、有力な受け入れ先となる企業側との溝は、まだ埋まったとは言えない。問題に潜む課題と、さまざまな支援の取り組みを探った。

◇「ポスドク」増、05年度1万5496人

 「大学で研究を続ける道も考えたが、あまりにもポストが少ない。それよりも、具体的な製品として社会への貢献が目に見える企業での研究に魅力を感じた」。化学メーカーへの就職が内定した、九州大のポスドク(任期付き博士研究員)の男性(28)はこう語った。有機化学専攻で理学博士号を取り、この春からポスドクとして、化学反応のメカニズムを探る基礎研究に従事している。

 企業への就職を考え始めたこの男性は、大学のキャリア支援センターを訪ねた。そこでの講座を受講し、企業の担当者らからプロジェクトの進め方や知的財産保護、情報管理などの話を聞いた。「これまでの大学の授業では聞いたこともない実践的な内容で、とても新鮮だった」と話す。

 ■背景に国の政策

 「博士の就職難」の背景には、90年代の大学院重点化と「ポスドク等1万人支援計画」という国の政策がある。ポスドクは順調に増え、文部科学省によると、05年度には1万5496人に達した。一方で、大学や公的研究機関の常勤(終身)職の数は、増加分に追いついていない。大学関係者の間では「明らかな失政」との批判が根強い。

 企業は博士採用には消極的だ。今年2月に日本経済団体連合会が公表した企業アンケート(回答71社)によると、技術系新卒採用者のうち博士の占める割合は3%。給与・処遇面で博士の優遇措置を取っている企業は4分の1、「博士の採用を増やしたい」と答えた企業は1割だった。

 理由は何か。

 早稲田大ポスドク・キャリアセンターの西嶋昭生教授は「企業側から博士は当たり外れが多すぎる、と言われる」と打ち明ける。専門性にこだわるあまり、柔軟性に欠けたり、他分野の知識やコミュニケーション能力に問題のあるケースが少なくない、という指摘だ。

 ◇官学が続々支援策

 こうした指摘に応え、博士の活躍の場を増やそうと設けられたのが九州大や早稲田大の支援センター。昨年度は7大学と理化学研究所、今年度は産業技術総合研究所や京都大など4機関が支援事業を始めた。企業と連携したインターンシップや就職相談会、研究管理職や起業に必要な能力を開発する教育プログラムなどの支援策に取り組む。

 「産業界で活躍できる若手研究者育成」を掲げる早稲田大は11日、「化学系ポスドクへの期待」と題するフォーラムを開いた。西嶋教授は「今の大学院教育は、研究者養成に偏りすぎている。大学院で産業界との接点を増やし、学生に刺激を与えたい。優秀な人ほど大学の外へ出て行く、という環境にしなければならない」と話す。

 ■「求職マーク」

 学会や国でも動きが出てきた。

 日本物理学会(会員約2万人)は3日、キャリア支援センターを始動。設立記念式典で、センター長に就任した坂東昌子・愛知大教授は「単なる就職あっせんではなく、博士号を持った教師の増員や新しい職業の創生、企業の意識改革にも取り組む」と抱負を述べた。ポスドク研修会を全国的に展開する。

 応用物理学会(同約2万4000人)は今月上旬に北海道で開かれた学術講演会から、発表者が求職中であることを示す「キャリアエクスプローラーマーク」=図=を導入。希望者はマークを発表資料に表示したり、身に着けたりし、企業の担当者がコンタクトを取りやすくするという。日本化学会(同約3万2000人)は東京(11月9~10日)と大阪(来年1月25~26日)で、初の「博士セミナー」を開く。

 一方、文部科学省は来年度、博士と企業を橋渡しする事業を始める。半年から1年程度、企業との共同研究や商品開発に博士が参加するプログラムを大学などが作り、派遣費用を国が負担する。「企業にとっても、優秀な人材をそのまま採用できるメリットがある」(基盤政策課)という。

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 ■ことば

 ◇ポスドク

 ポストドクトラルフェローの略。博士号取得後、終身雇用ではなく、任期付きの研究職につく人のこと。任期は多くが1年更新で、最長3~5年程度。文部科学省によると、30代前半が46%。女性は21%だが、40歳以上では27%になる。社会保険加入者は58%にとどまる。

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