彼女はすべてを嫌ガール | タロのブログ

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 娘をだっこしたのは5年ぶりでした。当時彼女は4歳でした。

 そんな彼女は小学3年生で、成長した彼女は重かったです。いや、成長したからというわけでなく、彼女は昔から重かったことを思い出しました。この子は、抱っこする側の気持ちを無視した無理な姿勢をとるのです。それは5年たっても変わってなかった。成長のない娘の重さに、嬉し哀しの再会でした。

 

 さて、その娘ですが、実家での生活はどうも羽目を外しているみたいで、何事も嫌ガールです。

 生野菜を食べるのも嫌だし、運動するのも嫌い。特に、自分が取りかかったことを邪魔されるのが嫌な傾向が強いです。ビデオを見始めたら、途中で止めることができず、上の空になります。気分を盛り上げてあげれば乗ってくるのかなと推測したのですが、色々なかわいい女優の画像を見せつつ、長くなった前髪を切りに美容室に行こうと誘っても、「え~。ラプンツェルみたいに伸ばしたい!」と、こだわりもあるようで、読み切れません。

 何か食べさせても、あれ嫌い、これ嫌いというので、「今日は、おいしいもの食べに外に食べに行くよ~」と伝えると、「ええ~。おうちで食べたいよ~」という発言。おそらくこれが、息子とは違う、彼女の自己を解放する時間なのだと思います。

 

 彼女にとって、自分はよくわからない他人である面が大きいです。だからこそ甘えるのだと思い、それはある意味危険な状況です。今まで、母と一緒に居て、兄とぶつかる母を支えてあげなければと思い続けていた娘です。その緊張が途切れた反動がこれだと考えています。

 

 自分はこれから、娘に対してどう接するのでしょうか。簡単です。「言葉」という嘘も真実も混ざった判別に苦しむ道具で子供を縛ることは出来ないのです。「言葉」は魂の前ではとてもつまらない契約でしかないのです。また、子どもの望むことを聴く耳を持つ必要ありません。子供は判断できないのですから。子供に対して大人がすることは簡単です。我々大人が正しいと思ったことを遂行する姿だけ見せればいいのです。自分は、自分の人生を見直すきっかけになった、「走る」ことと「掃除をする」ことを、彼女の前で黙々と続けるのです。その姿は、いつか彼女の魂に届くのだと信じています。

  

 ある日、自分がランニングシューズの紐を結んでいると、娘が背中に立って言いました。「5分走ったら、5分で戻っていいんだよね?10分でいいんだよね?じゃあ今時間かるから、わたしも行く~!」と一緒に走りに行きました。彼女はランニング初日、1分30秒で走れなくなって足を止めましたが、今もめげずに続けています。「今日はこれくらい走れたよ!」と、共有のタブレットからラインを送ってきてくれるのです。

 

 自分はうれしい反面、なぜこんな簡単なことができなかったのか、哀しくも思うのです。しかし、後ろは絶対に振り返りません。その哀しみ含めて自分なのですから。