速水御舟展に行ってきた2016年12月の第1週 | タロのブログ

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ちょっと前の話だけど、12月4日に山種美術館の速水御舟展に行ってきた。

その感想を書いておく。

 

 

速水御舟と言えばこの絵。「炎舞」。渦巻き状に燃え上がる炎と、そこに群がる妖艶な蛾は、否が応でも生命の力強さを植えつけられる。しかし、この絵の圧巻はその背後にある闇だ。単なる黒ではなく何かの重なりを表す黒は、その中から無数の生命を生み出す。NHKの日曜美術館では、御舟はこの黒に青を混ぜたと語っていた。御舟自らこの黒をもう一度描けと言われても出来ないと言わしめたその色は、観ている者を暖かく、そして底なしに吸い込む。

 

 

 20代の御舟は日本画になかった写実にこだわり続けた。この絵を観てほしい。柿だ。パッと見ふーん秋だねって感じの絵だが、顔を近づけて驚いた。寄れば寄るほど、おそろしく柿なのだ。柿の葉のあつぼったく固い質感。細いけどつややかに照りかえす枝は簡単に折れない頑固さを感じさせる。そして晩秋の夕の寂しさと冷たさをそのまま凝縮してしまった空気感。展示ケースに額がつくほど近づいて自分は身震いがした。何だこの画家は。

 

 

 

お次は「翠苔緑芝」。写実を極めた御舟は古典回帰を目指す。それは光琳のようなデザイン性に富んだ日本画だ。金地に緑青の芝と苔が幻想的な気分にさせてくれるが、ここでも御舟の写実生が発揮される。黒猫と白兎と紫陽花を観てほしい。ぞっとする。

 

 

 

それらに顔を近づけて観たときに、自分は直感的に「死」をそこに見た。絵の中の猫や兎は生きている。しかし、自分は、やがて死に行くそれらの動物たちを感じたのだ。固く冷たくなった彼らの未来を。絵は生だけを永遠に切り出せるはずなのだが、御舟はそれを超えて、死をもの絵の中に埋め込んでしまったのだ。死なないものは生きていもいない。御舟はそれを涼しい顔で筆で表現している。正直、感嘆するよりも気持ち悪いと思った。それが御舟だ。

 

自分の御舟の評価は、少し言葉が悪いが、ちょっと感覚がずれている人だと思った。なにかが暴走している感触を受けた。それは若さなのかもしれない。ひとつのリピドーなのかもしれない。きっと御舟から何かを抜いたら、バランスが取れて一つの日本画の到達点があったのかもしれない。そう考えると40歳の若さで亡くなったのは残念でならない。きっと50、60歳と筆を重ねるうえで、見たこともない絵を残したのではないかと想像する。人と手を繋いだ時に湧き上がる、心に滲みだすような暖かさを色で表せたのではないかと想像する。