先日、「バース/リバース」という映画を観ました。
死体を生き返らせる研究に没頭する変わり者の医師ローズと、娘のリラを突然亡くした助産師セリアがそれぞれの目的のためにリラの死体を生き返らせる物語です。
映画の中では案外簡単に(それはそう、映画なのだから!)、リラの身体は生き返ります。
ここで言う「生き返る」というのは、心臓が動き出す、ベッドから身を起こす、声を発する(言葉をしゃべるわけではない)といった身体的な活動(「反応」と言ったほうがいいでしょうか)のことを指します。
つまり、リラの体に生きていた頃と同じ意識が宿っているのかと問われると、どうもそのようには見えません。
ただ、生きている時にセリアと一緒に歌った「むすんでひらいて」にリラが微かに反応したりする場面などはあったりします。
ローズはいわゆるマッド・サイエンティストで、まだ誰も足を踏み入れたことのない医学の領域に踏み込んでいくことに執念を燃やしています。
一方、セリアにとってローズの実験は、とにかく自分の愛する娘を取り戻す唯一の方法です。
しかし、この二人には共通して欠けているものがあります。
それは、そもそも「リラ」という人間はいったい何なのか、という視点です。
リラの身体がまるで機械のようにひとりでに動き出せば、それはもう元のリラだと言っていいものなのでしょうか。
科学の領域において、私たちの「意識」というものは、研究対象として計測および観測することが大変困難なものだと言われています。
それでも、様々な形のアプローチで研究が進んでいるそうです。
通常、私たちは「自分の体に自分の意識が宿っている」と考えますが、次のような実験結果が報告されていたりします。
それは「ラバーハンド錯覚」といって、自分の手でないものを自分の手のように感じてしまう錯覚です。
被験者が机の上に両手をのせ、手と手の間に仕切りを置きます。
被験者は右手しか見えない状態で、その右手の横に左手の形をしたゴムの物体を置きます。
第三者が被験者の左手とゴムの左手を同時に筆でなでると、被験者はまるでゴムの左手が自分の左手であるかのように感じ、それが筆でなでられているような感覚を覚えるというのです。
「自分の体は自分のものである」という感覚を「身体所有感」という概念で呼ぶそうですが、この実験から、自分の体以外の物にも身体所有感を持ち得るということが分かります。
つまり、「自分の体は自分のものである」という感覚は案外簡単に変容してしまうものだというわけです。
となると、「自分の体に自分の意識が宿っている」という考えも瞬く間に揺らぎ始めるように思えませんか。
劇中で、ローズはさておき、セリアにとっては、一度死んでしまっても、リラの身体にはいまだにリラの意識が宿っているという前提があるように思えます。
ただ、その前提は半ば祈りのようなもので、セリア自身の中でも、「これは本当にリラなのだろうか」という疑問が脳裏に浮かんでは、感情がその疑問を打ち消すといった葛藤が起こっているような気がしてなりません。
それだけ、目で見たり、触れたりすることができる物質には、圧倒的な説得力があるのかもしれません。
しかし、この物質というものも、実はそれ自体が客観的に存在しているのか、あるいは私たちの意識がその物質を認識した時点で存在し得るものなのか、という問題があります。
あ、そろそろ今日の記事の限界が来そうです(笑)。
「あれ、今日の記事には全然タロットが出てきてないな」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
実はタロットを学んでいると、どうしても「意識(自分)とは何か」とか、「自分が見ている世界とは何か」といったことを考えざるを得なくなってくるのです。
あくまでも私の場合においてですが。
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