コロナをめぐる「社会的距離」と「社会生活」ーー社会社会学の出番 | 埼玉的研究ノート

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新型コロナウイルスをめぐって、社会的距離とか、社会生活に必要な店は営業するとか、「社会」という言葉がよく出てくる。日本語で一般的に使われる「社会」と社会学でいう「社会」はかなりズレていることは社会学者にはよく認識されているが、昨今の情勢ではそのことについて改めて考えることになった。

英語では多分social distancingとingをつけて用いることが多い気がする。この場合、socialは社交という意味合いが強いだろう。社交の距離を取るということは、自ずと物理的な距離も離れることになる。一方、「社会的距離」というと、人間関係の強さ・弱さを意味しそうなので、社会的距離を取る」というと、社会学的な感覚からすると、疎遠になるというニュアンスになる気がする。「物理的距離」と言ったほうが正確なのではないか。

どの店が営業を自粛するかという話で、「社会生活に必要な」というのが基準になっている。社会学にとっては社会は至る所にあるので全部ということになるはずだが、「社会生活」という場合の「社会」は、人間が生物として一人では生きていけない、という意味での、つまり、○○の動物は社会性を持つとかアリの社会とかいうときの「社会」に近そうだ。

そういう意味での「社会」は、社会学は必ずしも中心に据えてこなかったかもしれない。社会学は広いので、「連辞符社会学」がよく作られる。文化社会学、教育社会学、歴史社会学、労働社会学、などなど。今こそ社会社会学が必要なのかもしれない。

こういうぼんやりしたことをわざわざブログに書こうと思ったのは、アメリカで黒人のコロナ感染率と死亡率が高いという記事を読んだからである。朝日新聞に載っていた記事によると、黒人が多数を占める郡は白人が多数の郡に比べて、感染率が3倍、死亡率が約6倍だという。

黒人は都市の中心部に住み、公共の交通機関を使う頻度が高く、人との接触が多くなる。郊外にゆったりとした住居を構えて車で通勤する余裕がないからだ。貧困に起因する基礎疾患も多い。もちろん医療へのアクセスの問題もあるだろう。

そして何より、アメリカでは、上記の意味での「社会生活」にかかわる職業にマイノリティが就く場合が多いのである。バス運転手、食料品店の店員。記事も「社会を支える「必要不可欠な職業」に就いている割合が高い」と書いている。

どこにでもある社会に生きる人間を、生物的な次元で支える社会がどのようなものであるのか。これは社会学者にとっての重要な課題に違いない。