①沼津・ヘダ号「ふね遺産」に認定-静岡新聞②戸田造船郷土資料博物館50周年記念式典③供養祭 | taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢

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☆BLOGの話題は、精神世界とリアルな現実世界の話題です。
巡礼の旅で、危機に瀕する日本を感じました。
未来の孫たちへ、「日本人の霊的遺伝子」を繋げる責務が、今の世代にあります。

昔は、沼津から船で戸田に行けましたが、無くなっていた。

六十年ひと昔です。

漁師町の匂いが懐かしい。

 

記憶力の強い祖父が教えてくれた伊豆の歴史。

断片的ですが・・

苗字帯刀の謂れです。

 

1870 年(明治3年)明治新政府は「平民苗字許可令」が出され、平民の苗字の名乗りが公的に許されるようになった。

それ以前の庶民には「苗字」が記録されない。

 

明治三年以前の戸籍を辿ることで、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門英龍が構想して作った、「戸田農兵隊」に行き当たる。あまり知られていない日本で初めての西洋式幕府陸軍(国民皆兵)です。
江川太郎左衛門配下の伊豆農兵隊の領民には、平民ながら「苗字帯刀」が許され、少ないながら俸禄も出た。

但し、一代限りの身分でした。

 

 

ユネスコ世界遺産 韮山反射炉

韮山反射炉外観 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

韮山では西洋式反射炉が作られ大砲が鋳造された。

江川砲兵塾 (師範・高島 秋帆) も作られる。

 

 

プチャーチン提督の乗艦「ディアナ号」破損による代用船「戸田号」の鉄材は、小さな実験炉によって賄われていた。それが無ければ、急な造船は不可能でした。隠れている事績です。

戸田領民には、千石船を造船、操船する技量があったのです。

 

阿片戦争で大国シナが、イギリスに完膚なき敗北を喫したと知った旗本の江川太郎左衛門英龍は、苦心惨憺して「農兵隊」に装備する大砲、鉄砲、糧食、調練をしたのです。38代・英武の差配時代には、農兵隊の足跡(韮山、戸田、三島、下田、観音崎、八王子・日野宿、藤沢・龍口寺、お台場、横浜野毛、千葉金谷、北海道新十津川)が拡大した。

 

英龍には、伊豆沖で窺う黒船の影が度々報告されている。英邁な彼は、海防力を充実させようとしたのです。

幕閣に建議したのが「豆州下田湊海防御備向存寄之趣申上候書付)」である。

 

・・伊豆漁民の気風は、難破船を助ける慈悲心と、しかし海賊行為には、憤然と戦う敢闘精神があるのでしょう。

戸田農兵隊に与した。

 

 

沼津・ヘダ号「ふね遺産」に 近代造船の礎、歴史的な価値認定
(2019/7/19 14:05)静岡新聞SBS


 当時の設計図を元に製作したヘダ号の模型(戸田造船郷土資料博物館提供)

     江戸末期、駿河湾に沈んだロシア船「ディアナ号」の代船として現在の沼津市戸田で建造された「ヘダ号」が19日、歴史的価値のある船関連の遺産として、日本船舶海洋工学会から「ふね遺産」の認定を受けた。同日午後、東京都内で認定式が行われる。

     ヘダ号はスクーナー型の木造帆船。1854年、ロシアのプチャーチン提督は日露和親条約締結のため日本に滞在していたが、安政地震に伴う大津波に遭い、乗っていたディアナ号が富士沖で沈没した。これを受け、修理港になるはずだった旧戸田村の漁民が乗組員を支援。帰国するため、ロシア人が設計、地元の船大工が図面に起こしてヘダ号を造った。現存はしていない。

     沼津市教委が昨年12月、認定候補として申請していた。船大工がその後、長崎伝習所に派遣されるなどし、洋式船建造技術の礎を築いたことなどを推薦理由に挙げた。

     認定を受け、戸田造船郷土資料博物館の山口一博館長は「大変喜ばしい。戸田の貴重な歴史を後世に伝えるよう努めていく」と述べた。ヘダ号の復活を目指す一般社団法人「ヘダ号再建プロジェクト会」の荒川邦夫会長は「資料集めや研究に取り組んできた関係者の総合力の結果だ。今後の活動の励みになる」と喜んだ。

     ふね遺産の認定は、船関連遺産を文化遺産として次世代に伝えるため、2017年に始めた。これまでに、横浜で展示保存中の日本丸など17件が認定されている。第3回の今回から現存しない船も対象になった。


元記事➡ https://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/659235.html

 

 

戸田造船郷土資料博物館50周年記念式典 2019年7月20日-くるら戸田

 

ロシア・ノヴゴロ州代表から記念品贈呈

 

「ふね遺産認定式」の様子がスライド上映された

駐日ロシア・ドミトリ-公使の日本語での祝辞は秀逸です

 

今も続く ロシア人との友好 ディアナ号沈没から160年

https://youtu.be/BBFBgxNMT0Q

山口展德
2014/07/31 に公開
1854年の「安政の大地震」で、国交樹立を求めて伊豆に来ていたロシア艦船「ディアナ号」が沈没してから2014年で160年を迎えます。
ロシアへ帰る代用船(日本初の近代的洋式帆船)の製造が行われた沼津市戸田(へだ)では今でも逗留中に病気と事故で亡くなった二人のロシア人水兵の霊を慰める供養祭が「戸田港まつり」に併せて開かれています。



説明は代用船の「ヘダ号」を作られた船大工御用係の子孫の方(2017年7月)

 

令和元年プチャーチンパレードと供養祭(宝泉寺)2019年7月20日

・・戸田造船郷土資料博物館50周年記念式典後パレードと供養祭が行われた。

ロシア側参列者

ロシアドミトリー公使、オルーガ参事官、ビュートル通商代表部主席、ニキーチン州知事、ノヴォロド州訪問団、縁戚者

 

下田市長は「日露首脳会談」を下田に誘致したいそうです。

・・下田は日米和親条約と日露和親条約に関して縁の深い土地です。外務省に陳情した。

 

 日露和親条約(にちろわしんじょうやく、露: Симодский трактат)は、安政2年12月21日(1855年2月7日)に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本とロシア帝国の間で締結された条約。日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、ロシア側全権は提督プチャーチン。

安政4年5月26日(1857年6月17日)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスと下田奉行の井上信濃守清直、中村出羽守時万の間で日米和親条約を修補する全9箇条の下田協約(下田条約)が締結された。

 

 

 

 

2008年2月17日、日野市において西洋流砲術の演武を「西洋流火術鉄砲隊保存会」..のご協力で行なわれました。
日本で初めての洋式調練は、我国西洋流砲術の開祖である高島秋帆によって、天保12年..(1842年)に徳丸原(現在の板橋区高島平)で行われました。それから下ること20..年、元治元年(1864年)に日野宿でも日野宿農兵隊に鉄砲隊が編成され、同年11月..から、江川太郎左衛門代官屋敷で日野宿農兵隊幹部に対する西洋流鉄砲の教育調練が開始..されました。翌慶応元年2月21日から、日野宿でも、西洋流鉄砲調練が始まりました。(動画投稿者の説明文)