幕末風塵記 農兵隊  | taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢

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☆BLOGの話題は、精神世界とリアルな現実世界の話題です。
巡礼の旅で、危機に瀕する日本を感じました。
未来の孫たちへ、「日本人の霊的遺伝子」を繋げる責務が、今の世代にあります。



2008年2月17日、日野市において西洋流砲術の演武を「西洋流火術鉄砲隊保存会」..のご協力で行なわれました。
 日本で初めての洋式調練は、我国西洋流砲術の開祖である高島秋帆によって、天保12年..(1842年)に徳丸原(現在の板橋区高島平)で行われました。それから下ること20..年、元治元年(1864年)に日野宿でも日野宿農兵隊に鉄砲隊が編成され、同年11月..から、江川太郎左衛門代官屋敷で日野宿農兵隊幹部に対する西洋流鉄砲の教育調練が開始..されました。翌慶応元年2月21日から、日野宿でも、西洋流鉄砲調練が始まりました。(動画投稿者の説明文)
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日野宿でも、 江川出張り代官所で農兵隊の鉄砲調練が行われていました。


歴史研究者でもない自分が、歴史についてブログにしようとする意図をいぶかると思います。

たびたび、夢の中に現れることの意味を知ろうとしたからです。

夢に誘われて歴史の本を読むと違和感のある内容が多々ありました。
特に唯物観に裏打ちされた、所謂、日本暗黒史観は読み続けられませんでした。
なんとも、悪人しか歴史には居ないみたいですね。ニコニコ


歴史を辿ると、シンクロニシティしていると思われることもあります。

幕末期に、
最も日本の中で先端的な活動していた場所に様々な現象が起きました。
伊豆韮山において日本で最初の西洋式鉄生産の為に反射炉を完成前日に、安政の東海大地震(1854.11.14)で崩れてしまつたのです。
その時、ロシアの国交使節団のディアーナ号も津波に遭い難破しています。

帰る軍艦を失ったプチャーチン提督は、幕府に船の製造を打診してきました。
江川太郎左衛門は、反射炉の修理・増築で多忙を極めていましたが、千載一遇のチャンスと捉えロシア
側と協力して軍艦を(伊豆の戸田)つくることに同意しました。
(伊豆戸田は日本最初の洋式軍隊発祥の地、戸田農兵隊のある土地です)


軍艦には鉄を多量に使います。
反射炉の問題点も、ヒントとなる知識を吸収して完璧なものが出来ました。
まるで、その為のような具合で完全な反射炉づくりのために、ロシア船が参考になりました。

西洋式軍艦の造船技術と製鉄の技術を手にしたことになります。

明治維新の成功は、日本の中堅層の厚さだと思います。
実践・実学が伊豆韮山の精神でした。

この時代の知識人は、外国事情に危機感を抱いていました。
偉大なインドも、偉大な中国も西洋列強の植民地にされたことを憂いています。
特に、中国と英国のアヘン戦争の結果に驚愕していました。
明治維新の原因の一つです。



過去世の記憶かと思える夢から、
江の島龍ノ口、竜口寺が、江川代官支配地と知りました。
夢の中の砂浜を、変な走り方で、ずつしりと重い洋式鉄砲を抱えています。

事実は、鉄砲訓練のために調練区域が作られていました。
妄りに外国人に荒らされないための処置とも感じられます。

江川太郎左衛門は、伊東においても寺院近くに海岸防護の砲台場を作っています。
これは、以前に下田において外国兵に寺院を荒らされたことの事前の配慮です。
聞きつけた若者たちが、激発して外国兵を襲撃するのを怖れ、下田に農兵隊を作り、韮山からも農兵隊を派遣しました。
それに加えて、小田原藩に援兵を求め警護させる事態になりました。

無益な争いを起こさせないための策です。
事を起こせば、国どうしの戦争に発展するとの自覚が、太郎左衛門にはありました。

太郎左衛門の足跡を辿ると、彼の強烈な実践意識を感じます。


(農兵節は、戸田農兵隊の宣伝のため江川太郎左衛門が作ったと言われています。誤って伝わっていますが「ノーエー」は「ノーヘー」が正しい節です。中の奇妙な言葉は、オランダ語です。調錬用語は彼が翻訳した造語です)


伊豆韮山を巣だった農兵隊の若者たちが、各地の江川出張り代官所へ赴き、西洋式鉄砲調錬を指導していきました。

国を護る農兵隊の歌を、各地に残しながら・・・



*続ける予定にしています・
現在の日本の状況にシンクロするように、「過去からの聲」若者の雄たけびを感じています。