灰色の猫さま一部転載・・
本日のMy短歌【 東方の夜空よ紅く燃え盛り炎の下のいのちぞ思ふ 】
こんにちは、今日は9月1日です。「震災忌」また「震災記念日」や「防災の日」という俳句の季語にも
なっていますが、1923年(大正12年)9月1日、正午直前に関東地方全域と静岡県・山梨県の一部を
襲った大地震が起きた日・・・。
マグニチュード7.9、死者行方不明者約4万、焼失家屋45万、全壊家屋は13万で、震源地は相模湾
でした。後に「関東大震災」と名付けられた大災害です。
【オレンジ色の部分が1日、グレイが2日に焼失したエリア 赤丸が火災による旋風の起きた地点】
特に火災による被害が凄まじく、燃え上がる火は更に風を起こして火を呼び、遠く群馬県からも
東の空が赤くなっているのが目視出来るほどだったのですね。どれほど異様な光景だったでしょう?
あの赤い空の下で東京が燃えていた・・・おそらく祖母には想像もつかなかった事でしょう・・・。
夜空に紅く紅くあくまでも紅く・・・あれは街をそして人々のいのちを焼き尽くす炎だったのですね。
今日の短歌はそんな思いで即興で詠んだ歌です。相変わらず、出来は悪いのですけれど!
続き
*リブログ本文↴
◆命を繋ぐ
大正の関東大地震で深川が燃え出したのは、小学生だった父が学校から帰された頃だったそうです。
祖母が迎えに来た。
祖父は建築会社を経営し、「火消し組」を任されていました。
若い衆と共に救助、野火止構築、避難する人たちを安全な方へ誘導したそうです。
江戸時代の大火を知る高齢な年寄りが存命でしたので、差配は的確でした。
下町の様子を知り尽くしている。
しかし、田舎から来た近所の住民は、火炎が迫るまで動こうとせず、多くが犠牲となりました。
紅蓮の竜巻風が吹いたそうです。近所の小名木川に飛び込んだ犠牲者は多い。
萬年橋のあたりは、一面遺体が漂っていたそうです。
祖父たちが引き上げた。
東京大空襲でも同じ場所です。
この慰霊堂は、東京大空襲あるいは戦災の犠牲者を弔うために作られたのではない。もとは1923年(大正12年)の関東大震災の犠牲者を供養するために、震災記念堂として1930年(昭和5年)に建てられたものだ[すみだハンディガイド(墨田区文化観光協会)]
祖父は関東大震災、東京大空襲を生き延びました。
多くの人たちを救った偉丈夫です。
海で育ち、がっちりした人でした。
血を繋ぐ者は、この世に私と息子だけです。