卑弥呼の祭祀用建物跡?奈良・纒向遺跡で柱穴100個超出土 | taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢

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卑弥呼の祭祀用建物跡?奈良・纒向遺跡で柱穴100個超出土
2013.2.2 13:44(産経)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130202/art13020213480002-n1.htm

 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、女王・卑弥呼(ひみこ)が君臨した時期にあたる3世紀前半の小型建物の柱穴が100個以上見つかり、市教委が1日、発表した。約60平方メートルの狭いエリアに集中し、小型建物を建てたり壊したりした跡とみられる。遺跡の中心部で柱穴が集中して確認されたのは初めてで、専門家は「年に数回、卑弥呼が特別に執り行った祭祀(さいし)用の建物跡ではないか」とみている。

 市教委は過去の調査を踏まえ、遺跡の中心部は、卑弥呼の宮殿とも指摘される3世紀前半の大型建物を含む4棟の建物が東西に並んでいたと推定。今回、昭和53年に柱穴の一部が確認されていた最も西側の建物の推定地を調査し、この建物に関連する柱穴は確認されなかったが、周辺で直径10~60センチの柱穴を100個以上確認した。

 市教委によると、建物群の入り口にあたるとみられ、「特別な空間」として利用された可能性が高いという。古代祭祀に詳しい辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は「卑弥呼が年に数回、食物の収穫を感謝する祭祀のたびに建てられ、祭祀後に取り壊された複数の小型建物の痕跡ではないか」と推測している。

 一方、今回の調査では、4世紀中頃に整備された豪族居館の周濠(しゅうごう)跡の一部も確認された。過去の調査を踏まえ、周濠の規模は東西約65メートル、南北約54メートル、幅は最大5・8メートル、深さ最大60センチ以上と判明した。

 市教委は「3世紀の宮殿エリアを囲むような周濠で、この周辺のエリアが、世紀をまたいで政治や祭祀の神聖な土地として利用されていたのではないか」とみている。

 現地説明会は3日午前10時から。JR桜井線巻向駅の西方徒歩約5分。

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邪馬台国の女王・卑弥呼(ヒミコ)が、中国の魏に朝貢したのは239年と、『魏志倭人伝(三世紀初頭)』の記述から、確かな歴史的な事実です。

「古事記・日本書紀の古伝説のなかに、ヒミコ女王の該当者を求めるとすれぱ、ヒルメノミコト女王(天照大御神) の他はないのです。日本書紀によると 日本最初の国王は、天皇家の祖先にあたるヒルメノミコト女王であった と伝えられています。 (市村其三郎博士)

皇室の発祥の地が、南九州であると伝えられているのは、ヒムカ(日向)という地名や、日本古代の文化の上で、九州のもっていた優位性のためではなくて、実際に九州に起源があつたからであろう。 (東京大学の榎一雄博士)


『記紀』(古事記の「記」と日本書紀の「紀」を併せて「記紀」という)は、天皇家が権力を得てから、その政権っを正当化するために作られたものである・・・・?

戦後の日本歴史学は、左傾思想者によって偏向させられているので、上記は疑ってみるべきです。

古代人は伝承を書くことはできても、現政権の都合に合わせて歴史を創作する能力はなかったと考えておいたほうが無難である。
東洋史においても、古代シナの殷 いん は神話とされていたが殷廃墟が発掘されたため、神話説はすっとんでしまった。三国志だって、事実に根がなければ、あれだけの人名や地名を考えだせる作者はいないであろう。

日本の記紀にも膨大な数の固有名詞が出てくる。虚構でて゛きる生やさしい数ではないのだ。しかも、古事記 と日本書紀の編纂が別々に行われたことは確実視され、細かい点での相違はいろいろあるのに、大筋で一致しているのは、共通の記憶を書こうとした努力の結果にほかならない。(引用: 渡部昇一の古事記 (渡部昇一著作集/歴史3)

『記紀』の神話についての登場人物と九州地方の記述は、とても半端なく多い。神話を創作する必然性はないでしょう。

戦後、日本の歴史学が「政治的意図(皇統の廃絶)」で組み立てようとする勢力に侵食され、卑弥呼(ヒミコ)が、天照大御神(ヒルメノミコト女王)と認めない。

日本最初の女王が、万世一系の天皇家に実在した祖先となるからです。

記紀には、出雲や、南九州の熊襲などを平定した物語りはあっても、北九州を平らげた話だけがない。かえって、神武東征の話があって、九州からヤマトにすすんだことになっている。(東京大学の東洋史家、和田清博士) 

「古代日本の歴史は、女王国の段階を経て、はじめて大和朝廷に進んでいるわけです。神武天皇はどうみてもヒミコ女王の何代目かの子孫ということになりましょう。
日本書紀にのっている神武天皇の東征の詔というのをみると、神武天皇はヒルメノミコト女王の子孫だと明記してあるのです。」(以上、刀江書院刊『民族日本史』)
 

日向(宮崎県)にあった草創期ヤマト政権は、東征を重ねながら橿原(奈良県)に進出、初めて日本を統一してヤマト(大和)の国、「ヤマト(大和)朝廷」を築いた。神武天皇(じんむてんのう)-日本の初代天皇(古事記、日本書紀による)であり、日本を初めて統一して「ヤマト(大和)朝廷」を築いた日本最大の英雄。(wikipedia)


『古事記』『日本書紀』では、神武東征伝は共通しています。
   

安本美典著
卑弥呼と邪馬台国より 
邪馬台国東遷説の根拠
 
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/konnkyo.htm

中国文献では、魏代から隋代まで、倭国は、連続したものとしてとらえられている。倭の五王なども、卑弥呼につづくものとしてとらえられている。魏代以来倭国が連続性を有することは、北九州の勢力が東遷して、大和に中心を移したことを示す。(安本美典著)


実在した女王・卑弥呼は「神あがり」して『天照大御神』となる。
神武東征伝の歴史的事実から、東征前の故地は九州と推定されます。

邪馬台国の女王・卑弥呼(ヒミコ)が支配する倭国は、九州であって卑弥呼に服属していなかった時期である奈良の纒向遺跡には、住んでいた痕跡が有り様もない。
大和統一後に 「天照大御神」の祭神として祀られた祭祀跡 なら発掘されるでしょう。


『古事記』『日本書紀』(成立720年頃)の編纂者は、『倭国』の中国読み(魏代から隋代)では侮辱した意味と知って『大和』と名乗るようになりました。

邪馬台国(ヤマト) から 『大和』(ヤマト)の和語読みは変えませんでした。

歴史の継続を自覚していたのでしょう。

そして、奈良時代になって、倭国は日本という国号に改められました。
(魏志倭人伝では、女王国を倭国と記し、女王卑弥呼を倭女王と記しています)



不思議なことに、シルクロードの街道にあたる中央アジアには、「ヤマト」などの地名が古代の地図に載っている。

高度な知識と技術を持つて移動する、謎の集団(ヤマト族)が居たようです。

朝鮮半島には、残っていない、通り過ぎただけ。忌避したので痕跡もない。


神武(ヤマト・イワレヒコ)東征の折、「熊野民族の神との契約」が結ばれて、突如、日本統一が成就した・・と思う。




追記 2月11日(祝日)は、建国記念日 (神武天皇が即位した日、紀元節)



     
追記 
2013.2.5 テーマを日本の歴史から八咫烏に変更