遊行上人 一遍の夢見 | taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢

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☆BLOGの話題は、精神世界とリアルな現実世界の話題です。
巡礼の旅で、危機に瀕する日本を感じました。
未来の孫たちへ、「日本人の霊的遺伝子」を繋げる責務が、今の世代にあります。

戦国時代劇映画の一場面でした。

僧が読経を唱えながら、幾多の白骨化した雑兵の髑髏(しゃれこうべ、頭蓋骨)に、経の一文を筆で書いていきます。

若い私の心に、激しいデジャヴを引き起こしました。 



一遍がみた風景



その時代、

時衆と呼ばれ、後の「一遍」の起こした時宗でした。

時宗は、大無量寿経 観無量寿経 阿弥陀経に拠っています。大本山は藤沢市・遊行寺です。

この映画が引き金となり、度々断片的に夢に現れる事になりました。


一遍の夢の解釈は、重要な示唆に富んでいます。

夢は、神仏から伝えてくる「夢託(夢の中での御神託)」であるとしています。
それを「夢見」で受け取り、「夢語」として多くの民衆に和歌に換えて分かりやすく仏の教えを説きました。

一遍の初期の夢見は、受け取るだけですが、
自ら神仏に近づくにつれて、チャネリングが自在になったようです。

高度な夢見では、

夢の共有が為され、皆同じ夢を見るようになると、異郷にある者と夢で邂逅することも可能になります。
たとえ、その人物が亡くなっていても、生ある者として現れるのだと思います。



「称名の外に見仏を求むべからず。称名、即真実の見仏なり。

肉眼を以て見る所の仏は、実の仏にあらず。われら当体の眼に仏を見るは、魔としるべし。

但し、夢に見るはまことなる事あり。これゆゑに、夢は六識が亡じて、無分別の位にみる故なり。

故に、経には「夢定」と説り。」とある。(播州法語集、一遍)



 神仏の御姿を拝みたいとの欲求は、信仰の深い人ほどあるようです。

一遍の見仏(けんぶつ)の考え方は、瞑想修行について独特な解釈をしています。

瞑想に観る仏を、「魔」と喝破する考えですね。

しかし夢見の状態こそ、

「夢定」に至るとは、「禅定」也との達観を披歴しています。


一遍上人は、

とても優れた「夢見能力者」だと、気づきます。

死者と夢見した対話から、

一遍は、野に晒された者たちを弔う、「遊行上人」になられたのでしょう。


残念ながら、

東北・関東大震災での膨大な死者を弔う、現在の遊行上人の姿は現地にありません。

スピリチュアリズムを否定してきた伝統宗教界の現実なのでしょうか?


玄関に立つ濡れた姿に、胸が塞がります。。


短稿でした。