日出づる処の天子 聖徳太子の中国との外交姿勢
尖閣列島の中国漁船の侵犯事件。
日本の巡視艇にわざと体当たりしてきた船長の逮捕に、その後の、中国政府の度重なる非礼な抗議(日本の大使をわざと夜中に呼び出し、中国観光客の差し止め)などの一方的な態度になんら抗議しない日本政府。
聖徳太子は、中国に「国際社会での平等」を求めました。
太子の煬帝宛の国書には、「仏法をお互いに奉じる」との前書きがあります。
前書きで国際社会での平等思想を隋帝国に説いています。
(戦後の左傾歴史家は、敢て伏せて無視しています)
推古15年(607年)聖徳太子が隋の皇帝に送った国書。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」聖徳太子。
「東の天皇、敬みて西の皇帝に申す」日本書記
当時、西のローマ帝国と東の隋帝国が支配する世界です。
隋帝国の皇帝、煬帝であり、日本に柵邦体制への服属を求めていました。
強い通告を何度も出していました。
聖徳太子は、百済の渡来人からの情報で、この服属の意味を知悉しています。
朝鮮の凋落は、中華帝国に服属したことにより始まっています。
少しの恩恵の見返りが、民衆に塗炭の苦しみを招くことを理解していました。
日本からの国書を諸侯列座の前で煬帝は、声を荒げて激怒したと伝わっています。
日本に兵を差し向けるとまで。
聖徳太子が、大陸の情勢に無知でないのは明白です。
歴史は繰り返すと感じるのは、
朝鮮の旧支配層は、民衆の苦しみを知りながら、中華帝国に内通して権力の座を維持してきました。
英邁な聖徳太子は、中国との関係を深めることの危険性に気が付かれておられました。
遣隋使の派遣を取りやめたのは太子の政策でした。
交易のみで、人の交流は避けようとの考えだと理解されます。
(中国人の激情気質に隣人としての付き合いは、ほどほどにと)
この当時、隋国は朝鮮での戦争に日本の介入を考慮(恐れて)して、答礼使節を送って来たとも云われています。
素早く太子は、小野妹子を隋に遣しています。
「東の天皇、敬みて西の皇帝に申す」と国書にあります。
天皇という称号を初めて日本の歴史上使用したのは聖徳太子です。
英邁な聖徳太子は、念入りに、この一文を入れました。
彼らに、日本の立場を知らしめるために。
日本人のDNAを持つ指導者ならば、中国側に「国際社会での平等」を求めると思います。
彼ら中国人には、民主主義をもつた歴史は、現在までありませんが。
中国とは、交易のみで、人の交流は避けようとの聖徳太子の遺志を継ぐべきと思います。
国際社会との付き合い方も出来ない間は、遠ざける方が無難です。
中国を震源とする 「大動乱」 に巻き込まれないための穏便な方策です。
ダライラマ法王の訪日を撤回させようとすることは、他国に内政干渉する、中華思想、 其の物の思考です。
![クローバー](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/054.gif)
中華と朝鮮の指導者たちは、この「脱亜論」を内心は非常に怖れています。
お彼岸に相応しくない、時事問題でしたが。
長い文を我慢強く読んでくれました。感謝。
![ニコニコ](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/139.gif)