儒教の伝来は王仁が『論語』と『千字文』をもって渡来したとの伝承が『古事記』などにあるが、少なくとも513年に百済より五経博士が渡日した時に伝来したとする説が有力のようである。仏教よりも若干早く渡来が、蘇我氏や聖徳太子に崇拝された仏教ほどには大きな影響を与えることなく、飛鳥・奈良・平安時代と支配層である天皇や貴族の教養として国家統治の帝王学や経世済民の思想として受容されていった。例えば聖徳太子の『十七条の憲法』のなかに儒教精神が生かされているし、貴族の教育機関であった大学において「明経道」として学ばれるなどした。
しかし、鎌倉時代から江戸時代前までは禅宗寺院の僧の教養として、あるいは15世紀前半に上杉憲実が再興した足利学校において儒学の講義が行われるなど主として上級武士の教養として学問的に学ばれていったが、仏教のように庶民にまで精神的な影響を大きく与えるものではなかった。江戸時代になって朱子学や陽明学が中国より純粋な学問として伝来し、儒教は仏教寺院から分離した。特に朱子学は江戸幕府によって封建支配のための思想として採用された。藤原惺窩の弟子であった林羅山が徳川家康に仕え、以後、林家が大学頭に任じられ幕府の文教政策を統制するようになる。逆に、江戸時代まで勢力を誇った寺院勢力は「寺院法度」によって統制され形骸化していった。
第5代将軍徳川綱吉は幕府の政治を武断政治から文治政治に転換し、儒学、特に朱子学を重要視し、1690年に湯島聖堂を建立し、そこで林家の私塾としての学問所が開講されて朱子学が教授されるようになった。この幕府の動きは当然諸藩にも影響を及ぼし、幕府・諸藩において武士の教養や立身出世の道ともなり、生命をかけて戦う武士の武士道から為政者としての武士道を支える思想として興隆していくことになる。長期間平和が続いた江戸時代に入り、戦闘要員から政治的指導者階級に変化した武士階級が形成した武士道は、社会的組織運営理念であると共に個人の人格形成の理念となったのである。
また、林家以外の朱子学派や陽明学派、さらには朱子学や陽明学の元となる孔子の儒学に立ち返ろうとする古学派なども興隆し、農民や商人などの価値観・人生観にも影響を及ぼすこととなった。中江藤樹(「孝」倫理を庶民に浸透)から弟子熊沢蕃山は朱子学より実践を重視する陽明学派を興隆させ、近江商法に影響を与えたと言われ、また1724年には大坂の豪商達が学問所「懐徳堂」を設立して朱子学と混交した陽明学が教えられた。また、農を経済の根本に置いて重視する二宮尊徳の「報徳思想」も儒教の影響を受けた独自の思想であった。また陽明学派は後には、大塩平八郎の乱に始まり幕末の佐久間象山や西郷隆盛、吉田松陰等の維新運動に大きな影響を与えることになる。
その後、朱子学派に戻して述べれば、8代将軍徳川吉宗は朱子学を遠ざける傾向があったが、松平定信は老中とsてると幕府の威信を取り戻すため身分秩序と農業経済を重く見る朱子学を正学として、古学派など朱子学派以外の学派を規制した(寛政異学の禁)。加えて、幕府教学機関としての昌平坂学問所が成立した。しかし、その後、幕府が衰退すると共に朱子学派も衰退していくこととなる。
わが国の儒教を学派に分けずトータルに捉えると、江戸時代を通して武家層を中心として日本に定着し、日本的な儒学として発展し、幕末には水戸学にも影響を与えて尊皇攘夷思想に結びついて明治維新の原動力の一つともなった。しかし、一般民衆においては、「正直・倹約・勤勉」を根本とする石田梅岩の石門心学等の例外を除いては、学問としての儒教思想は普及しなかった。しかし、道徳思想として「仁(思いやり・愛)・義(私利を捨て徳を為す)」、「忠(忠誠)・孝(親孝行)」、「敬(他者の尊重)・信(誠実で正直)」などの徳目は武士の支配を通して(例えば5代将軍綱吉は1682年に全国に「忠孝」奨励の高札を立てて民衆に周知させるなどしている)、御伽草子や仮名草子などの物語を通して、五人組や寺子屋などを通して、民衆の生き方・考え方・価値観に大きな影響を与えた。幕末のペリーなどの軍人やハリスなどの外交官、グラバーなどの商人をはじめ、明治の富国強兵の国策の中で技師として来日した西洋人、クラーク等の学者などが、「日本人は嘘をつかないし、約束を守る」とか、「学問熱心で知的レベルが高い」とか、「清廉潔白で賄賂をとらない」などと賞賛をしているが、これらは、過日述べた古来の「神道」精神や仏教思想の基盤に加えて、本領安堵してもらうため生命をかけて戦った鎌倉期以降の武士の生活を通して生まれた土着の倫理とも言える「命惜しむな、名こそ惜しけれ(=名誉・誇りを守る)」といった武士(モノノフ)の生きる道(= 武士道)や今回述べた儒教思想が我々日本人の精神形成の根拠となったと考えられる。
繰り返しになる部分もあるが、江戸時代の武士道精神は為政者階級の武士が、武士らしく生き、また人間としての生きる規範として儒学を新たな基盤として形成された。武士道精神は、武士が武道と共に精神の修養に基づく覚悟により自らを律する言行一致の実践倫理思想として錬磨してきたものであり、支配階級の持つべき思想性・誇りを涵養してきたと言える。すでに述べたことと再度重複するが、「神の道」の古来の神道精神を元に仏教・儒教思想を加味して、武士が武士らしく生きる規範を加味した思想と言えよう。その基本は、死と恐怖心を如何に克服し、面目を失わない生き方を追求して生きることである。
このように武士道は儒教倫理により磨き上げられたものであるが、その根本は鎌倉期の「名こそ惜しけれ」の武士道精神であり、個人としての心構えとして「死」・「清さ」・「潔さ」・「覚悟」・「言行一致」・「自己犠牲」・「克己心」・「恥」などがキーワードとなるであろう。即ち武士は、何を為すかを自らに問い、武士としての心構えとして死への恐怖心を克服し、潔く行動し、個人の責任を自覚し(覚悟)、発言には責任を持って行動する(言行一致)事を重視した。まやかし・裏切り・心のぶれはないか、庶民への思いやりはあるか、指導者階級としての義務を果たしているか、正義であるか、潔い振る舞いができており破廉恥な言動をしていないか、勇気があるか、武芸の鍛錬を怠っていないか等々の基準を守ってこそ体面が保たれていた。体面を保てない場合に最悪の場合は切腹をして潔白を示したのである。儒学に視点を当てて述べていたのが(儒学思想を取り込んで変化した)武士道の方へ論が移ってきてしまっているが、このまま武士道について述べていきたい。
江戸時代に一つの完成を見た武士道は、すでに述べたように、主なものとしては大自然に宿る神・神聖なものへの畏怖、ケガレタタリに対する清め・祓いなどを土壌とする清き明き心に代表される「神道的倫理観」、地獄・極楽を対置しての自力によってあるいは他力本願によって苦からの解脱・極楽往生を目指す「仏教的倫理観」、更には「仁・義・礼・知・信」を根本徳目とする「儒教倫理」を混在させて生まれた人格形成の道であり思想である。更なる繰り返しになるが、廉恥を重んじ恥をかかず名誉を守る・主君の忠の滅私奉公・死をも恐れぬ死生観などを大切にする生き方を重視するもおである。また、利己を捨て、物欲を抑制する克己心を鍛錬するし、事態の変化に対しても信念を貫いてブレぬ不撓(フトウ)不屈の精神を重視する。たとえ貧しくとも志を高く持ち、私利を求めず自己犠牲をいとわず公に尽くすこと、正義感を持って指導者階級の立場を全うすることを美徳として重視したのである。
明治時代になると、西欧化の嵐の中で儒教も仏教同様に規制されたが、1890年の『教育勅語』には儒教の「忠孝」思想が取り入れられており、江戸幕府とは異なった立場で天皇を神とする「天皇制」を支える理論(天皇に対する絶対的忠義)として政治利用されている。しかし、第二次世界大戦の敗戦後は、天皇への忠、親への孝などの儒教倫理は影を潜めた。
明治以降については殆ど省略したが、影響力の現象が見られるためお許し頂きたい。
<補 足>
前回の「仏教」で述べることができていなかったが、仏教が武士のみならず一般庶民にまで生き方に与えた思想的影響として「死生観」の形成に触れ忘れていたので、改めて触れておきたい。
即ち、『平家物語』の冒頭部の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり……」や鴨長明の『方丈記』の冒頭の「ゆく川の流れは絶えずして 然も元の水にあらず よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて久しく留まりたるためしなし……」等に述べられている「無常観」であり、また、悟りは例えば道元が『正法眼蔵』のなかで、「仏道を習うというは自己をならう也。自己を習うというは自己を忘るる也 ……」と述べているように、仏道における「悟り」は自己への執着を捨てること、との禅宗の思想が根本にあると考える。
以上、儒教の日本的精神への影響について武士道にも触れながら述べた。
中国・朝鮮からの渡来思想である、儒教や仏教は本来の日本固有の精神を失わせるものとして排斥し、日本固有の精神を尊重し深く研究しようとする国学が江戸時代中期に賀茂真淵(『万葉集』の研究から「ますらおぶり」を重視)や本居宣長(『古事記』や『源氏物語』の研究から「もののあはれ」を、重視し「たおやめぶり」を良しとした)を代表として影響を与えた。当初は主として古代の歴史・文学の研究であったが、古代の研究から次第に古代よりの神の道(= 神道)の精神に結びついていき、平田篤胤の復古神道などに形を変えて幕末の尊皇攘夷思想から明治以降の国粋主義思想などに影響を与えた。しかし、国学は日本人の人生観・価値観、生き方・考え方への影響から見れば仏教や儒教ほどに根深く日本人の精神に影響を与えたとは考えられないので、ここで簡単に触れるに留めた。
なお、次回は、最終回として「まとめ」を記したい。 それでは、ご機嫌よう。