Andante in D-Flat (arr. Michael Hoeltzel)
Andante in D-Flat (arr. Michael Hoeltzel) ·
American Horn Quartet ·
Anton Bruckner En-Cor! - American Horn Quartet
℗ 2014 Albany Records
Released on: 2014-12-01
Music Publisher: MIchael Hoeltzel
【ホルン四重奏】ブルックナー アンダンテ
カルテット ホーネッツ
日橋 辰朗 (読売日本交響楽団)
熊井 優 (神奈川フィルハーモニー管弦楽団)
豊田 実加 (神奈川フィルハーモニー管弦楽団)
山岸 リオ (読売日本交響楽団) Bruckner Andante
ブルックナー:アンダンテとはありますが、私はブルックナーがあまり好きではなく知っているのは交響曲0番の第2楽章のAndanteくらいですが、どこから持ってきたものだろうか。編曲者、ミヒャエル・ヘルツェルは1936年生まれのドイツのホルン奏者です。シュトゥットガルトとザルツブルクでホルン、ヴィオラと指揮法を学びました。ザルツブルク・カメラータ・アカデミカの首席ホルンをつとめ、その後バンベルク交響楽団やミュンヘン・フィルでもソロ・ホルン奏者をつとめ、欧米のオーケストラとの共演も多くあります。1993年からデトモルト音楽アカデミーでホルンと室内楽の教授をしています。日本からの留学生も多く学んだ学生も少なからずいるようです。
参考音源画像の最初とCDはケリーターナー率いるアメリカン・ホルンカルテットのアンコール・ピースを集めたオムニバスですが楽しく聴けます。
さて、これまでブルックナーについて書いたことがありませんので、ざっくりとではありますが調べてみましょう。ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(Joseph Anton Bruckner, 1824年9月4日 - 1896年10月11日) は、オーストリアの作曲家でオルガニストです。交響曲と宗教音楽を多く書いたことで知られています。
リンツ近郊の村で学校教師で校長を務める同名の父アントン・ブルックナーと、母で地主ヘルム家の娘テレジアのもとに生まれました。12人兄弟の長男でしたが、6人は幼少時に夭折しています。子供時代から音楽に才能を示し、教師でまたオルガニスト、ヴァイオリニストであった父は息子の才能に気がつきます。村の教会のオルガンを用いて父から初歩の音楽の手ほどきをうけます。
11歳の時に近郊の村で和声と対位法を教える教師で神父の従兄弟ヨハン・バプティスト・ヴァイスの元に預けられましたが、翌1836年12月の年末、父が肺炎をこじらせてなくなります。母親はザンクトフローリアン修道院へ葬式のために行き、その主任神父ミヒャエル・アルネートにアントンの世話を頼むのです。
同年7月にザンクトフローリアン修道院の寄宿生として入学したアントンは、第3学年に編入し、聖歌隊に加わり、宗教と音楽の教育を受けます。「トネルル坊や」と呼ばれたアントンは、ここで幾人かの教師たちとの幸運な出会いです。校長ボグナーは彼に音楽理論と対位法を教え、「オルガンのベートーヴェン」とあだ名されたアントン・カッティンガーにオルガンを師事しています。
生活のことを第一に考え、補助教員となったブルックナーは、ボヘミア国境近くの辺鄙な村に赴任しますが、田舎のあまりに退屈な生活と、教職とは名ばかりの雑用や畑仕事に嫌気が差します。紆余曲折を経て、1843年に新たな任地へ転勤することとなります。州都リンツからもそう遠くなく、作曲家でオルガニストのレオポルト・フォン・ツェネッティ (1805–1892) に習うことができました。特にバッハの平均律クラヴィーア曲集の分析に夢中になり、様々な演奏の機会などに恵まれます。
勉強をつづけ、校長登用試験に合格したブルックナーは、1846年(21歳)少年時代を過ごした聖フローリアン修道院の教師となって帰ります。その後、27歳でカッティンガーの後任として修道院のオルガニストの地位につきます。
1855年、リンツ大聖堂の専属オルガニストであったヴェンツェル・プラングホーファーが亡くなりその後任を決める登用試験が行われ、ブルックナーは試験の観客としてそれを聴きに行きます。フーガ即興課題で他の受験者たちの冴えない演奏に痺れを切らした審査員の一人でデュルンベルガーが、客席にいたかつての弟子「トネルル坊や」を見つけて演奏するように焚きつけます。ブルックナーは最初渋りますが、素晴らしい演奏を披露して受験者と審査員たちを圧倒してしまいます。思いがけずリンツ大聖堂オルガニストという大職の座を勝ち取り、オーストリア国内やドイツ文化圏でその名声を築き、十分な収入を得ることができました。後年の「交響曲第5番変ロ長調」(1876年)の第4楽章の長大なフーガは、ブルックナーがフーガの達人であることを窺い知ることできます。
同じ1855年にブルックナーが作曲した「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)」は、ジーモン・ゼヒターをブルックナーに紹介します。これを機にゼヒターに和声法と対位法を習いますが、ゼヒターから修了の免状を受けたブルックナーは、ゼヒターの教えるウィーン音楽院の卒業資格が欲しいと願い出ます。
ブルックナーの作曲の勉学はそこでも終わらず、さらに同年1861年から1863年(39歳)まで、自分より10歳も若いオットー・キッツラー楽式や管弦楽法を学びます。オルガニストから作曲家に転換したブルックナーの作曲の修行過程は、極めて晩学で特異なものでした。フーガや教会音楽の形式には長じていましたが、ソナタ形式をはじめ、ワルツ、マズルカ、マーチそしてスケルツォといった、世俗的だが同時代の都会の演奏会用音楽、規範となるベートーヴェンの音楽様式を、キッツラーのもとで初めて学んだのです。
1867年にゼヒターが死去すると、ゼヒターの後任としてウィーン・ホーフブルク宮殿礼拝堂の宮廷オルガニストおよびウィーン大学の教授職に応募しますが、どちらも不採用に終わります。しかし翌1868年に、同じくゼヒターの後任のポストとしてウィーン国立音楽院の教授になるようヘルベックがリンツまで来て説得した結果就任することができました。その後、ウィーンに移住しています。
このようにオルガニストとしての確固たる地位を得たブルックナーは、それ以降大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中させていきます。まだまだ長い、彼の交響曲のような人生本日はこれにてお開きとさせていただきます。短い曲の割に長い説明でした。
※ 演奏会のご案内⑫
※ 演奏会のご案内⑬
アメリカン・ホルン・カルテット
【曲目】
ハチャトリアン:剣の舞
ケリー・ターナー:フィエスタ・ファンファーレ
ドビュッシー:亜麻色の髪の乙女
チャイコフスキー:交響曲第4番~ピチカート・オスティナート
ドリーブ:「ラクメ」より花のデュエット
ガーシュイン:イット・エイント・ネセサリリー・ソー、サマー・タイム
レノン&マッカートニー:エリナー・リグビー
マンシーニ:ムーン・リバー
レフ・コーガン:フレイラック2
バーンスタイン:マリア、アメリカ
バッハ:シンフォニア11(BWV797より)
ケリー・ターナー:ワルツィング・マチルダ
バッハG線上のアリア、小フーガト短調BWV.578
ブルックナー:アンダンテ
ローレル・ショウ:フリッパリー9番「チャールストン」、フリッパリー14番「サムシング・イン・ツー」
マイヤース:カヴァティーナ(ディア・ハンターより)
【演奏】
アメリカン・ホルン四重奏団〔チャールズ・パットナム(Hr)、ジェフリー・ウィンター(Hr)、クリスティーナ・マッシャー(Hr)、ケリー・ターナー(Hr)〕
【録音】
2014年5月ゼンガーハレ、ザウルハイム(ドイツ)