愛情
M・I氏に
大きな辞書を広げてかれは手紙を書いていた。
それは半ば戻ってくることのない、かれの青
春の思い出に送られた手紙だと言ってもよか
った。今はない古びた病院でおれはかれと出
会った。
何故かおれはかれと仲良くなった。相撲を取
ったこともあった。かれは体中の刺青の意味
を教えてくれた。これは昔の恋人の名前が彫
ってあったのだと、その消した痕を見せた。
かれの書いた手紙にその彼女の名があったか
どうかは知らない。もしなかったとしても、
それはかれの彼女へのささやかな愛情の印で
あったに違いない。
退院してから、かれと再び会ったときに、か
れは少年時代の辛い体験を話した。そのなか
に、かれに愛情をもって接してくれた先生の
話があった。かれは涙ぐんだ。またかれは、
おれがかれの誕生日に寿司をおごったことに
ついて、それまでそんなことは一度もなかっ
たのだと言った。
かれの今の生活は厳しかったから、自棄にな
って酒を飲んで電話をかけてくることが多か
った。そこにはすぐには見えてこない世界の
歪みがあった。世界が狂ってないとすれば、
今のかれはいなかったかもしれない。そうい
う人生をかれに歩ませたのは何か。ここに世
界で争いが終わらないのと同じ理由を見出す
ことも不可能ではないのだ。