推し、燃ゆ
「推し」を解釈できなくなる日
著:宇佐美りんさん
今年いろいろ本を読んだんですが、なんだかんだでこの「推し、燃ゆ」がいちばん心にグッときて、3周くらいしているので、ちょろりと感想を残しとこうと思いました。
「推し」っていう言葉が出てきて結構経ちますが、最近自分でも「推し」という言葉にやっとピンときてるというか。「あ、これがいわゆる【推し】かもな」と改めて気づいたというか。まぁ簡単な話わたしにも「推し」ができたんですよね。「できた」というか「認めた」に近いかもしれない(笑) 既に「推し」ができた状態で今年の初めにこの本を読んだのでなんか凄い刺さったし、共感もしました。気づけば3周もこの本を読んでるし。
こっから私の「推し」の話をしますが(案の定そうなる)。推しが活動を始めて少しくらいの頃から存在は知っててちょいちょいは見てはいて。それがコロナ前に「応援してるな俺」に変わり、この1年で「これはもしかして推しというやつなのでは」と認識したという流れです。
で、この小説で印象的に使われる言葉に「推しを解釈する」という言葉があるんですが、この「解釈する」っていうのがすごいわかる。自分と照らし合わせても「応援」が「推し」に変わる決定的なものは、「推しを解釈したいという欲求」なのではと思うんですよね。なぜあの場面で推しはああいう行動をしたのか?推しはこういう時にこう思う人だなとか、こういう言動をしたけど本当はこう思っているんじゃないかなとか。とにかく推しの目線からその推し自身の感情を慮る描写がこの小説にはすごい多いし、この小説の主人公はそういう推しのスタイルなんですが、この主人公の推しのスタンスがすごいわかるなと共感しました。それがいわゆる「推し」というものの始まりなんじゃないかなとすら思います。感情移入という感覚はもう超えて、その先に行ってる状態。なんなら一周して神の目線になってる感じですよね。この小説だと。
この小説の後半で推しが芸能活動をやめるという展開があるけど、そこで主人公が「もう推しを解釈できない」という言葉が出るのもなんかすごいわかるなと。もう解釈できない。
この小説で、推しは「背骨」に例えられますが、この残酷で不条理な世の中に「推し」という概念が定着したことに、すごい説得力があります。宗教観の薄い日本ということも大きいのか。自分の中の軸、背骨。そもそも人間とは何か自分とは別の大事な軸がないと生きてけない生き物なのかもな、とか。
主人公が抱える精神の病、生きづらさの描写は目を見張るものがありました。その集大成があの鮮烈なラストシーンでしょうか。綿棒を拾う。彼女にとってどれほど太い背骨だったのか、どれほど切実な軸だったのか、すごい伝わるし、彼女のような生きづらさを抱える人への社会的な適切なケアはないものなのか、そんなことを思ったり。
ともかく想像を超え色んな方面から心に刺さった一冊でした。強い小説だったなと思います。