2016年04月15日(金) 晴れ
2016年02月11日(木)に国立新美術館で見た熊谷守一の「陽の死んだ日」という作品がとても気になったので、今日は午後から豊島区要町にある「熊谷守一美術館」に行ってきました。
→ 2016年02月11日(木) 「はじまり、美の饗宴展 すばらしき大原美術館コレクション」より
『そして、今回、とても気になったのは、熊谷守一の「陽の死んだ日」(1928年)
最初、黒や赤、黄の絵具を塗りたくった作品かと思ったら、横たわっている女性が見えてきた。
襟元が赤い布団が掛けられて、亡くなったばかりのようだ。
この女性は画家の奥さん? 恋人?
しかし、「陽(ひ)の死んだ日」という題なのに、何故、横に黄色い蝋燭が灯っているのだろう?
描きかけのような周りの白い空間は、どういう意図なんだろう?
と、すごく気になる作品だった。
休憩室に置いてある図録の解説を読んだら、亡くなったのは熊谷の4歳になったばかりの陽(よう)君という名の次男で、幼い命が生きたあかしを残したいと筆を取った作品だったろいうことだ。
途中で、絵を描いている自分を認識し、嫌悪感を感じて筆を置いたのだと。
げっ、「陽(ひ)の死んだ日」じゃなくて、陽君の死んだ日だったんだ。
亡くなったのは女性ではなくて、4歳息子さんだったんだ。
まわりの空白は、やはり、描きかけだTったのだ。
カフェで休憩してから、再びこの作品を見た。
事情を多少知ったうえでも、やはり気になって仕方ない作品だった。』
東京駅から丸ノ内線で池袋に出て、副都心線で隣の駅の「要町」へ。
要町駅の案内看板。
要町駅から歩いて熊谷守一美術館へ。
要町は初めて降りた駅で、掴みどころのない街だけど、取り敢えず街路樹が良い感じ。
要町小学校に美術館の看板がある。
ここを左折すると住宅街になるけど、美術館の行き先表示が電信柱にいくても貼ってあるので、迷わずに着くことができました。
熊谷守一は1880年岐阜県恵那郡付知村で生まれ、1997年、現在の美術館が建つ千早の地で亡くなった。
97歳のご長寿であったが、晩年は庭で虫や鳥や猫などを描いていたという。
美術館の壁面には蟻の作品が施されている。
守一は厚塗りされた絵具に、パレットナイフで削るようにカタカナのサインをしていたが、こちらの壁にもサインがちゃんとある。
こちらの美術館は守一の次女の榧(かや)さん(1929年生まれ)が1985年に設立。
ご自身も芸術家である榧さんの父、守一へのオマージュが込められた建物も非常に興味深い。
入口にある「いねむるモリ」の彫刻。
館内には多くの熊谷守一の写真が展示されていた。
若い頃から、彫りの深いとてもハンサムな方だったけど、榧さんが制作したと思われるこちらの彫刻は晩年の写真とそっくり。
ついでに言うと、守一自身が描いた自画像もそっくりだった。
入口のドアノブには、守一の最晩年の抽象画「夕暮れ」が施されている。
観覧料 500円
守一の父は初代岐阜市長。
恵まれた幼少時代を過ごすも1902年、父の死により実家が破産。
1904年に東京美術学校を卒業するが、絵が売れ始めるのは64歳を過ぎてから。
結婚したのは1922年、42歳の時だった。
貧しい生活が続き、5人の子供に恵まれるが、二人は幼くして夭逝し、長女の萬(まん)は1947年、21歳でこの世を去っている。
次男、陽(よう)を急性肺炎で亡くした1928年に描いた「陽の死んだ日」に導かれるにように、この美術館にやってきたのだが、守一が三人ものお子さんを亡くされていたことは知らなかった。
長女の萬さんを亡くした後に描かれた「仏前」には、黒い盆の上に、当時高価だった卵が3個載せられ、傍らに二つのローアンバーの燭台が描かれ、背景は厚塗りのローアンバー。
「陽の死んだ日」のように悲しみを筆でキャンパスにぶつけるような描き方ではなく、静謐な抽象表現だけど、見ていると哀しく、切なくなってくる。
結核で亡くなった萬さんに栄養のあるものを充分に食べさせてあげることができなかったのかな・・・。
他にも萬さんが亡くなった日に、萬さんの筆跡を真似て著したという書も展示されていた。
「ヤキバノカエリ」は岐阜美術館所蔵で、こちらの展示はなかった。
絵葉書(100円)を買った。
シンプルな下絵の線を残し、白とアンバーだけで描かれた絵がとてもカッコよくて、素敵だ。
cafe Kayaでコーヒー(400円)を頂いた。
カップは守一の次女で、館長をつとめる榧さんの作品。
榧さんの陶芸作品は、カフェで販売していて、このカップは5,500円だった。
熊谷守一という画家の人生に触れることができる美術館だった。
帰りは要町から、最寄り駅まで、乗り換えなしで帰った。
地元のスタバでカンタロープ メロン & クリーム フラペチーノ(630円+税)で一服。
メロンの果肉が入っていて、美味しかった。