2013年03月17日(日)
「宮廷女官 若曦」の18話に出てきた王維の「終南別業」に未だに拘っている私。
①四爺が「行到水穷处 坐看云起时」の頸連だけを手紙にしたためたのは何故?
②頷連の「空」の意味が分らない。 仏教的概念で捕らえるべきなのか否か?
この2点についてずっと考えていた。(←拘るとしつこい性分)
まず、詞の漢字を一字一字したため、意味を思い起こしてみる。
字ズラからは「行雲流水」という言葉が思い浮かぶ。
次に水の流れの源流や雲が湧き上がるイメージを描く。
伊豆でせせらぎの源流を追って歩き回った末に、暗渠に行き着いた思い出。
関越の碓氷橋を越えた辺りの山々から湧き上がっている雲々・・・。
それらをイメージして、「そっか、そういうことか・・・。」と、この詩の意味が思い当った。
次に「空」の意味を探る為、五言律詩の規則と照らし合わせて詩を見てみる。
頷聯(がんれん)の「空」を、「色即是空」の「空」として捉えている日本語サイトもあるけど、
この詩の流れから考えると、ここでは、そこまで重い意味を持つとは私には思えない。
中国語サイトでは、この「空」を華麗にスルーしているところもあり、
第3句の「毎」との対句をなす為に「空」を用いたのかなと思った。
あとは平仄を合わせるためとか・・・。
にわか仕込み(←所謂、一夜漬け)の漢詩の知識なので、この程度の理解しかできなけど。
そして、詩の流れ、情景をイメージして、自分なりの言葉で訳をつけてみた。
【自分訳】
中年以降、仏教に傾倒するようになった。
晩年になり、ようやく終南山の麓に居を構えた。
興がのれば、たびたび一人で散策し、
素晴らしき事を一人愛で、また一人浸る。
時折、水の源流を追って彷徨い、水の極まるところに行き着き、
座して、雲が立ち昇るさまを眺める。
偶然、林の中で村の老人に出くわすと、
話は尽きず、帰る時を逸してしまう。
最後にこの詩自体の意味が知りたくて、中国語サイトの解説をいくつか読んでみました。
やはり中国語を母国語とする人達の見解を知りたくなったのです。
解説を読んでみて、私が思い当たった結論とほぼ一致していたので「Bingo!」とVサイン。
『行きては至る水窮まる処 座して見る雲起こる時』
四爺が若曦に送ったこの二句に滔滔と流れているのは「水」の概念。
人生を歩み、水窮まる処(=挫折、絶望感)に到達しても、
悠然と座して湧き起こる雲を眺めてみれば、
やがて、雨が降り、水で満たされるのを知るだろう。
挫折しても絶望する必要はない。
見方を変えれば必ずや活路は見出せるし、そこまで歩んできた道も無為ではない。
空行く雲や流れる水のように、執着を捨て、自然の成り行きに任せてみよ。
だいたいこんな事を言っているのだと思います。
こう理解して、改めて、「若曦 18話」を見ると、監督の粋な演出に気が付いてハッとしました。
この点については、次の記事にまとめたいと思います。
以下は中国語サイトに載っていた「終南別業」の解説の抜粋。
非常にラフに訳し、日本語もハチャメチャだけど、ご興味があればお読みください。
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「行到水穷处,坐看云起时」の「水穷处」とは何を示すのであろう?
流れを追いながら山を上り、ついに流れは見えなくなる。
水源は地表に覆われているのかもしれない。
あるいは、雨が集まった谷川の水がここで枯れたのかもしれない。
この登山者は、歩いて、歩いて、そして水が見えなくなり、
思い余って座り、山々に湧き起こる雲を眺める。
水は上昇して天に昇り、雲なり、雲は雨なり、地表に落ちて谷川の流れとなり、
枯れ果てた水が再び姿を表す。
何を絶望する必要があろうか?
人生もかくの如し。
生きていくうえで、愛情、事業、学問に拘わらず、勇往邁進し、後に行き詰まりを感じる。
絶対絶命の境地、悲哀、失望が避け難い状況が現れる。
このような時、回りを見たり、振り返って見たりすればべつの道が見えるかもしれない。
たとえ行く道がなくとも、空を見上げてみよ!
身は絶望的状況にあっても、心は思う存分、思いのままに空を飛び、
愉快に大自然を堪能し、広大で深遠な人生を味わい、絶体絶命の境地と感じることはない。
【意味の結論】
身处绝境时不要失望,因为那正是希望的开始;
山里的水是因雨而有的,有云起来就表示水快来了。
この句には二種類の境地があり、その第一は、身は絶望的状況にあっても失望する必要はない。
何故なら、それは希望の始まりであるから。
山里の流れは雨によってもたらされ、雲が湧き上がれば、水は直に落ちてくるのだ。
もう一つの境地は、仮に今、雨が降らなくても関係ない。 必ずいつか雨は降るのだ。
水が尽き、雲が涌き、雨が降る過程は、一人の人間が修行の過程で大きな困難に遭遇するのと同じだ。
身体的な障害や、精神的な障害、また環境的な障害もある。
これらの障害の為に心が折れたら、己の心を初心の時点に戻してみよ。
初心(無心?)とは菩薩の心である。
初心は何もない。修行に対する方法も、概念も分っていない。
当時の状況を省みれば、既にかなり長い道のりを歩んでいるのではないか?
ゆえに失望する必要もないし、放棄する必要もない。
人生の様々な過程でこのような状況が発生し、この詩の境地を用いれば、いたる所に活路が見出せる。
尾聯の「偶然值林叟,谈笑无还期」で突然「偶然」の二文字が現れる。
実は偶然老人に出会うことにとどまらず、これは偶然から生じる偶然で、
興に乗り出歩いた時点で、偶然性をはらんでいるのだ。
水極まるところに行き着いたのも偶然。
“偶然”の二文字が詩全体を貫き、気儘な散歩の特色となっている。
しかも至るところに偶然があるので、どこもかしこも“無心の出会い”となり、
さらに心の中に行く雲のように自由に天に遊び、流水の如く自由に流れに身を任せ、
形は何にも拘束されないような悠閑が現れる。
最後の二句によって、読者を人としての営み、生活のにおいがある世界に引きずりこむ。
詩人への印象に一層親しみを持てる。