「終南別業」を徹底解析  (第18話) | そんな感じ。 since March 28, 2005

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日常生活の中で、ふと感じたこと。

関心したこと。

その時の感性のおもむくままに気ままに書き留めています。

2013年03月17日(日)


「宮廷女官 若曦」の18話に出てきた王維の「終南別業」に未だに拘っている私。


①四爺が「行到水穷处  坐看云起时」の頸連だけを手紙にしたためたのは何故?

②頷連の「空」の意味が分らない。 仏教的概念で捕らえるべきなのか否か?


この2点についてずっと考えていた。(←拘るとしつこい性分)


まず、詞の漢字を一字一字したため、意味を思い起こしてみる。

字ズラからは「行雲流水」という言葉が思い浮かぶ。

次に水の流れの源流や雲が湧き上がるイメージを描く。


伊豆でせせらぎの源流を追って歩き回った末に、暗渠に行き着いた思い出。

関越の碓氷橋を越えた辺りの山々から湧き上がっている雲々・・・。

それらをイメージして、「そっか、そういうことか・・・。」と、この詩の意味が思い当った。


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次に「空」の意味を探る為、五言律詩の規則と照らし合わせて詩を見てみる。


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頷聯(がんれん)の「空」を、「色即是空」の「空」として捉えている日本語サイトもあるけど、

この詩の流れから考えると、ここでは、そこまで重い意味を持つとは私には思えない。

中国語サイトでは、この「空」を華麗にスルーしているところもあり、

第3句の「毎」との対句をなす為に「空」を用いたのかなと思った。

あとは平仄を合わせるためとか・・・。

にわか仕込み(←所謂、一夜漬け)の漢詩の知識なので、この程度の理解しかできなけど。


そして、詩の流れ、情景をイメージして、自分なりの言葉で訳をつけてみた。


【自分訳】


中年以降、仏教に傾倒するようになった。

晩年になり、ようやく終南山の麓に居を構えた。

興がのれば、たびたび一人で散策し、

素晴らしき事を一人愛で、また一人浸る。

時折、水の源流を追って彷徨い、水の極まるところに行き着き、

座して、雲が立ち昇るさまを眺める。

偶然、林の中で村の老人に出くわすと、

話は尽きず、帰る時を逸してしまう。


最後にこの詩自体の意味が知りたくて、中国語サイトの解説をいくつか読んでみました。

やはり中国語を母国語とする人達の見解を知りたくなったのです。

解説を読んでみて、私が思い当たった結論とほぼ一致していたので「Bingo!」とVサイン。


『行きては至る水窮まる処  座して見る雲起こる時』


四爺が若曦に送ったこの二句に滔滔と流れているのは「水」の概念。


人生を歩み、水窮まる処(=挫折、絶望感)に到達しても、

悠然と座して湧き起こる雲を眺めてみれば、

やがて、雨が降り、水で満たされるのを知るだろう。

挫折しても絶望する必要はない。

見方を変えれば必ずや活路は見出せるし、そこまで歩んできた道も無為ではない。

空行く雲や流れる水のように、執着を捨て、自然の成り行きに任せてみよ。


だいたいこんな事を言っているのだと思います。

こう理解して、改めて、「若曦 18話」を見ると、監督の粋な演出に気が付いてハッとしました。

この点については、次の記事にまとめたいと思います。


以下は中国語サイトに載っていた「終南別業」の解説の抜粋。

非常にラフに訳し、日本語もハチャメチャだけど、ご興味があればお読みください。


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「行到水穷处,坐看云起时」の「水穷处」とは何を示すのであろう?

流れを追いながら山を上り、ついに流れは見えなくなる。

水源は地表に覆われているのかもしれない。

あるいは、雨が集まった谷川の水がここで枯れたのかもしれない。

この登山者は、歩いて、歩いて、そして水が見えなくなり、

思い余って座り、山々に湧き起こる雲を眺める。

水は上昇して天に昇り、雲なり、雲は雨なり、地表に落ちて谷川の流れとなり、

枯れ果てた水が再び姿を表す。

何を絶望する必要があろうか?


人生もかくの如し。

生きていくうえで、愛情、事業、学問に拘わらず、勇往邁進し、後に行き詰まりを感じる。

絶対絶命の境地、悲哀、失望が避け難い状況が現れる。

このような時、回りを見たり、振り返って見たりすればべつの道が見えるかもしれない。

たとえ行く道がなくとも、空を見上げてみよ!

身は絶望的状況にあっても、心は思う存分、思いのままに空を飛び、

愉快に大自然を堪能し、広大で深遠な人生を味わい、絶体絶命の境地と感じることはない。


【意味の結論】


身处绝境时不要失望,因为那正是希望的开始

山里的水是因雨而有的,有云起来就表示水快来了。


この句には二種類の境地があり、その第一は、身は絶望的状況にあっても失望する必要はない。

何故なら、それは希望の始まりであるから。

山里の流れは雨によってもたらされ、雲が湧き上がれば、水は直に落ちてくるのだ。


もう一つの境地は、仮に今、雨が降らなくても関係ない。 必ずいつか雨は降るのだ。

水が尽き、雲が涌き、雨が降る過程は、一人の人間が修行の過程で大きな困難に遭遇するのと同じだ。

身体的な障害や、精神的な障害、また環境的な障害もある。


これらの障害の為に心が折れたら、己の心を初心の時点に戻してみよ。

初心(無心?)とは菩薩の心である。

初心は何もない。修行に対する方法も、概念も分っていない。

当時の状況を省みれば、既にかなり長い道のりを歩んでいるのではないか?

ゆえに失望する必要もないし、放棄する必要もない。

人生の様々な過程でこのような状況が発生し、この詩の境地を用いれば、いたる所に活路が見出せる。


尾聯の「偶然值林叟,谈笑无还期」で突然「偶然」の二文字が現れる。

実は偶然老人に出会うことにとどまらず、これは偶然から生じる偶然で、

興に乗り出歩いた時点で、偶然性をはらんでいるのだ。

水極まるところに行き着いたのも偶然。

“偶然”の二文字が詩全体を貫き、気儘な散歩の特色となっている。


しかも至るところに偶然があるので、どこもかしこも“無心の出会い”となり、

さらに心の中に行く雲のように自由に天に遊び、流水の如く自由に流れに身を任せ、

形は何にも拘束されないような悠閑が現れる。


最後の二句によって、読者を人としての営み、生活のにおいがある世界に引きずりこむ。

詩人への印象に一層親しみを持てる。



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