こんばんは、自己受容カウンセラーas☆isの岡田孝子です。
昨日、「ぼけますから、よろしくお願いします」という映画を観てきました。
私がこの映画を観て感じたのは
人は、どんなに年をとって認知症になったとしても
自分の思う通りに体が動かなくなったとしても
自我を持っているんだということ
小さいときに自我が芽生え
自分なりの考え方や感じ方を持つ
それは、認知症になって忘れることが多くなったとしても
なくならないんだということ
忘れる事が多くなって、出来ていたことができなくなって
きっと本人が1番もどかしいんだろうな
忘れる事が多くなってきたこと
出来なくなってきたこと
それさえ自分が認めることが出来たら
人に甘える事もできて、気持ちも楽になるんだと思う。
でも、それがね
なかなか出来ないんだよね
周りがなんて言おうと自分は出来る
なのに周りは、あーだこーだ言ってくる
だから、怒るんだよね
こんなはずじゃない!
私は、まだ出来るのに!
なんで、そんなこというの!
出来るはずなのに出来ない自分がもどかしい
出来ているはずなのに周りは、危ないからとやらせてくれない
じれったさと
悔しさと
悲しさと
情けなさ
でいっぱいになって、怒っちゃうんだろうな
自我が出てきた小さい子どもだって
自分の気持ちを否定されたりしたら
泣いて怒る
それと一緒だ
出来なくなることが増えたとしても
(小さな子どもなら、出来ることが少なくても)
自我を持っているということ
それを忘れてはいけないんだ
と思った
この映画に登場してくるお母さん
介護士さんが来るという日
ほうきで廊下を掃き、髪の毛をブラシでとかしていた
人に散らかった部屋なんて見せられない
だらしない人と見られたくない
いつもきちんと整えて人に会う人
そういう人柄が伝わってくる
また、人に迷惑をかけてはいけない
かけたくない
という気持ちも伝わってくる
娘にすら甘えようとしない
それがこのお母さんなんだ
自分は、もう思うように動けないこと
たったそれだけを認めるだけでも
違うのに
年を重ね、少しずつ出来なくなることが
増えて来た時
若かったときとは違う自分
その時その時の自分も受け入れていくことも
大事だなって思う。
きっと、私の母もいつまでも親でありたいと
思っていると思う
親であれば、私たち子どもたちの役に立っていられる
人は、誰かの役に立ちたいという思いがあるから
アドラー心理学の中に共同体感覚というのがある
人は、何かの共同体の中において
貢献感、所属感、信頼感、共感を持っていることが精神的に健康であるとしている。
この映画を観て、それをものすごく感じた。
貢献をしたいと思っているのに出来ない(貢献感)
→私は、役に立てない
役に立てない私は、邪魔者扱いされる(所属感)
→誰も私を信頼してくれない、わかってくれない
(信頼感、共感)
共同体感覚が1つも得られない
ないないづくしだ
これが怒りになってしまうんだ
どんなにボケようと、人の尊厳を無視してはいけない
それを大事にしながら、手伝ってあげる
それが介護士さんたちなんだなと思う
この映画を子ども目線で観た時
親の尊厳を大事にしようと思った
親目線で観た時
出来なくなった自分を認めてかわいいおばあちゃんになろうと思った
そして
物忘れが多くなって不安になっている母に
やってくれること心配してくれることに感謝しつつ
出来ることが減ったとしても
そこにいてくれるだけで、ありがたいと思っていると
伝えたい
生きていてくれるだけで
私たち子どもたちには、貢献してくれているということ
私たちが、お母さんができなくなってきたことを手伝わせてもらうことで、貢献感を感じさせてもらっているということ
(ここは、依存しすぎて共依存にならないように)
親子だからこそ
お互いに遠慮しすぎず
甘えることも大事なのかもしれない。
だから、多少の心配は親にとっては
ありがたいことなのかな
なーんてね。