銀座の柳と、ファンになりすぎな件。 | 黒柳タピ子の部屋

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思いつきでブログは進む。

「歌碑」シリーズ。なんですけれども。

(以前の記事に「いいね」くださった方、ありがとうございました♪)

 

前回の『有楽町で逢いましょう』や、『伊勢佐木町ブルース』の歌碑は、もちろん曲も知っているし、「この辺にあるのかな?」という場所もある程度、調べてから行きました。

で、今回は、これ、

なんとなく歩いているうちに見つけた(笑)

『銀座の柳』の歌碑。

あれだな、

「昔恋しい銀座の柳♪」

…ちょっと待てよ、それは『東京行進曲』、ではないか。

調べてみると、『銀座の柳』は西条八十/詞、中山晋平/曲で、『東京行進曲』の続編として作られた曲ということでした。歌は四家文子。(声楽出身の方で、実際に曲を聴いてみたら、端正な歌い方をされている方だなという印象でした)。

同名の映画の主題歌ともなっている(田中絹代主演、松竹)。

 

歌碑の横を見ると、「昭和二十九年四月一日」の日付が。

1954年というと、今から70年近く前か。

戦後のいろいろが落ち着いた頃かな?

 

植えてうれしい銀座の柳

江戸の名残のうすみどり…

 

私は子どもの頃に時代劇も好きだったので、

江戸の町というとセットに「柳」がよく植えられていたなーなんておぼろげな記憶があるのですが(今、ぜんぜん時代劇、テレビでやってくれないからなぁトホホ)、

モダンな感じの銀座にも「柳」って合いますね。

どうも、銀座に「桜」や「松」を植えてみたものの根付かず、「柳」になったらしいんです。

いろいろあっての柳だけど、江戸の名残も残している…っていう。

西条八十さんの無駄のない歌詞よ(泣)

 

歌詞の2番には、

巴里のマロニエ 銀座の柳

西と東の恋の宿

と、出てきます。

巴里と銀座を並べちゃって、カッコよすぎだろ。

 

銀座の柳並木は明治期に植えられたのですが、その後の関東大震災で焼失したり、道路の拡張工事などで撤去されたりしてしまったらしい…。

 

巴里に留学して東京へ戻って来た西条八十は、銀座の柳が失われてしまったのを嘆き、

昭和4年に『東京行進曲』で、「昔恋しい銀座の柳」という歌詞を書き、

この曲がヒットしたことをきっかけに、また柳並木を復活させようという流れになったらしい!

そして、昭和7年に実際に柳の植樹が行われ、その記念に『銀座の柳』が作られた、ということらしいのです。

 

すごいなぁ。歌が街を変えたのか!

 

西条八十は村田英雄の『王将』みたいな歌謡曲も書けるし、

「歌を忘れた かなりやは~♪」なんて唱歌も書けるし。

ふり幅広いー!今更ですけれども。

すっかりファンになってしまいまして、実は自伝も読みました(^^)/

 

この『銀座の柳』は湯河原の温泉宿で書いたらしいのですが(^^;)

そこには片岡仁左衛門も泊まっていたとか。

また、別の旅行先で竹久夢二と遭遇した話も面白かったですねぇ。ちょっと、ここでは書けないようなことも出てきますが(笑)

 

「オスカァ・ワイルドが向日葵の花を胸の穴に擁して、ロンドンの街を歩いたように」

映画女優の卵の断髪の美少女を連れて、西条先生が銀座の街を嬉々として闊歩するところなんかは、まぁ目に浮かぶようでした。

 

『東京行進曲』も「ジャズで踊ってリキュールで更けて」なんて、

「東京の退廃的なところを描きすぎて、けしからん!」

みたいに、発表した当時は酷評する音楽評論家も居たとか。

…えーそうなんだ(今じゃ、名曲!)。

 

西条さんが、ヨーロッパの留学経験があって、オスカー・ワイルドの名を出してくる人だったら、分かる気がするなぁ、こういう歌詞を書くのも。

 

なんて、ますますファンになったのでした…。

 

自伝で一番、印象に残ったのは関東大震災のところで、

被災した西条八十は、避難していた上野公園で、隣に居た少年がおもむろにハーモニカを演奏しだしたのを聴いて、

身も心も疲れ切っているのにもかかわらず、いや、だからこそかもしれないけれども、

その音色が真っすぐに心の中に沁みとおるのを感じて、

それも高尚な音楽でなく、誰もが知っているような曲で、

「わたしは大衆のための仕事の価値をはじめてしみじみと感じた」と記しています。

 

詩集も出版した頃で、このまま文学者になるかと思っていたけれど、歌謡曲のように誰にでも受け入れられる作品を作るのも良いなと思ったのでしょうね。

 

そして、

東京には「おけさ」や「よさこい」みたいな郷土歌謡のようなものが無いなと思って、いつか「阿波踊り」のように皆が熱狂して踊るようなものを書きたい、と。

 

…それがやがて、『東京行進曲』や

あの『東京音頭』につながっていくんだ!と思うと、おおおおーーっと。

 

しかしのぉ。

いろんな方のエピソードを探っていくと、

人生において「作品」を残せるのって、すごいことだと思う。

西条先生は残しすぎだぞー( ゚Д゚)

 

実は西条八十さん、少女小説のようなものも書かれていて(しかも題名は『人食いバラ』とか笑)それも読んだことがあるんですけれども←ファンすぎ(^^;)。

脱線しそうなので、このあたりにしておきますわ♪

長くなりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

銀座の、

黒柳タピ子

 

※『銀座の柳』の歌碑は、新橋郵便局のすぐそばです。

 

「〝むかし恋しい銀座の柳〟の文句が、讖(しん)をなして昭和七年の春銀座に新しく柳が植えられたのは、東京をふるさととするわたしにとって忘られぬ事件であった」

という文も自伝に出てきました。

 

※あんなに『東京行進曲』がヒットしたのに、ビク○ーは××円しか報酬をくれなかった、というのも書いてある(^^;)余談ですが。