宮崎県県串間市にある「扇山展望所(旧日本軍レーダー施設跡)」を慰霊致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

「鹿児島中央駅」より
「西都城駅」まで
電車にて1時間24分。

 

「西都城駅」より
「JR志布志駅」まで
バスで1時間14分です。

 

 

「JR志布志駅」から
「串間駅」まで電車で23分。

 

 

「串間駅」から
「PAKARAPAKAバス停」まで
コミュニティバスにて30分。

 

 

「PAKARAPAKAバス停」から
徒歩で31分の距離にあります。



◆扇山展望所(旧日本軍レーダー施設跡)



<案内板より>

 

 

太平洋戦争
(1941昭和16年~1945昭和20年)

 

<指揮室(指令室)の入口が見えます。>

当時、都井岬には

最新の
電波探知機を配置した

海軍の基地があり、


<早速入ってみました。>

B29爆撃機やグラマン機などの
敵(飛行)機の日本接近を

いち早く探知し、

敵機までの距離や

敵機が向かっている
方向などを分析し、


<若干の緊張が走ります。>

その情報をただちに
鹿屋の航空基地に

報告する
役目がありました。


<実は入口から右手に折れますと>

 終戦が近づくと
敵機は

毎日のように
都井岬に飛来し、

多い日には
200~300機も
飛んできました。


<ほとんど見えていないに等しいのです。>

 都井岬上空から

鹿児島方面や
宮崎市方面を

目指して
飛んで行きました。

 

<つまり真っ暗な環境下での撮影になりました。>

 

 

◆指揮室

 ここは指令室で、
奥には2つの部屋があります。

一つは隊長室で、
もう一つは通信室です。


<表に出ることにします。>

 部屋の奥には
通気口と小窓があり、

丘の向こう側に
見ることができます。


<入口に向かいまして・・・。>

 20世紀は航空機の技術が
飛躍的に発達しました。

対する防空側の索敵能力も
それに併せて向上します。


<祓い、鎮魂をさせて頂きます。>

レーダー技術を軽視し
後れを取った日本軍ですが、

戦争後期には
電波探知機の配備が進みました。

 昭和16年12月より、
都井岬に海軍の電探(レーダー)
および通信所の建設が着工。


<実は天井部に通気口があったのですが。>

 レーダー設備は年々拡充され、
本土空襲が激化すると共に、

見張所を守るための

対空部隊(25ミリ
および13ミリの対空機銃5基を装備)
も展開しました。


<その出口が、仏様?の台座の下に、>

 当然、米軍側も対策をとっており、
日本上空へ侵入する米軍機が

レーダー攪乱用の
チャフ(電波攪乱材)を

散布していたことなど
当時報道されていたそうです。


<位置していたのでした。>

 こうした妨害手段に加えて、
日本軍のレーダーは

精度の低さや探知範囲の狭さ、

更には陸軍と海軍で
情報が共有できない

という致命的な
欠点があった為、


<リンドウのお花でしょうか?>

その能力を

十分に発揮できて
いなかったのでした。

 

<その花言葉は、「勝利」「正義感」>

 日本軍の
レーダー基地や通信所は

終戦によって
撤去されました。

 

<他には・・・。「悲しむあなたを愛する」>

 唯一、遺構が
保存されているのが、

ここ串間市都井岬の
電探基地だったのです。

「唐瀬原 ―陸軍落下傘部隊史―より一部抜粋」


<そして「寂しい愛情」だそうです。>

 謹んで
祓い、鎮魂を
行わせて頂きました。