東京都三鷹市の 「中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点」 を慰霊致しましたⅤ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

JR「三鷹駅」より徒歩30分
「都立武蔵野中央公園」内にあります。



◆中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点Ⅴ



<説明版より>



一戦後の歩みー

1945(昭和20) 年8月15日、

日本は降伏し、
長い戦争は終わりました。



 武蔵製作所は、
激しい空襲のため、

工場として

再開されることは
ありませんでした。



 しかし、

鉄筋コンクリート造りの
建物は、

多くが改修され、
再利用されます。



 東工場で増設された
北側の組立工場は、

1950(昭和25)年に
移転してきた

電気通信省
(電電公社を経て、
現NTT株式会社となる)

「電気通信研究所2号館・3号館」
となりました

 (2001 (平成13) 年解体)。


<武蔵野通信研究所>

 また、

武蔵第一青年学校
(旧武蔵野青年学校) 校舎は、

慶応大学医学部による
一時利用を経て、

 1953(昭和28) 年には、

武蔵野市立第四中学校の
校舎(旧校舎) となります。


<武蔵野市立第四中学校の校舎(旧校舎)>

 西工場は、
サンフランシスコ平和条約で
駐留を続けた

在日米軍立川基地のための住宅

「米軍住宅グリーンパーク」
となりました。



 東工場の工具工場の
一角にあった変電室は、

1956 (昭和31) 年に

建設された都営武蔵野
第二アパートの

管理事務所棟として
再利用されました

(この説明板の場所に
建っていましたが、
2015 (平成27) 年に解体)。



 現在はこれらすべてが
姿を消しています。



 中島飛行機武蔵製作所の跡地は、
東工場部分は都営アパートに、

西工場部分は
都立武蔵野中央公園や

都立武蔵野北高等学校、

東工場北側の組立工場や
エンジン試運転場は、

NTT武蔵野研究開発センタ
などに生まれ変わっています。


<NTT武蔵野研究開発センタ本館>

 また、工場の敷地では、

現在UR都市機構
武蔵野緑町パークタウンや

武蔵野市役所が
それに該当します。



 武蔵野陸上競技場は、



中島飛行機武蔵製作所の
運動場でした。



 なお、UR住宅の場所は、
「東京スタジアム・グリーンパーク」

 という野球場が
作られましたが、



 砂ぼこりがひどく、



 1951 (昭和26) 年の

短い期間だけ実働し、
廃止されました。


<ヤクルトの前身球団「国鉄スワローズ」>

 西工場は、
 1953 (昭和28) 年に

米軍住宅グリーンパーク
として改修の上、

利用されますが、



返還を求める東京都と
都民の運動が実り、

1973(昭和48) 年に
返還が決定、


 
1977 (昭和52) 年に解体され、

1989 (平成元)年に

都立武蔵野中央公園
として開園されました。



 原っぱのままの
広大な公園は、



市民の要求が
実ったものです。



 子どもたちの
歓声があふれる、

この公園からは、



工場の大きさを
感じるだけで、



激しい空襲を
想像することは
ほとんどできません。



この公園は、
戦争から平和への時代の

移り変わりを象徴するもの
といえるでしょう。



謹んで
祓い、鎮魂を
行わせて頂きました。