東京都三鷹市の 「中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点」 を慰霊致しましたⅣ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

JR「三鷹駅」より徒歩30分
「都立武蔵野中央公園」内にあります。



◆中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点Ⅳ



<説明版より>



ーB29のマリアナ基地配備と
       日本本土空襲一

③ 激しかった4月の空襲

 中島飛行機武蔵製作所を
はじめとする多摩地域の
軍需工場に対しても、

4月に激しい空襲が
立て続けに行われました。



  まず、4月2日の未明に、
低高度から大量の爆弾が
投下されました。



 しかし、 工場内では、

運動場(現在の武蔵野陸上競技場)
 から武蔵第一青年学校

(前中島飛行機株式会社
武蔵野青年学校。

 現武蔵野市立第四中学校)
 にかけて落下しただけで、



ほとんどの爆弾は、

広く北多摩東部の畑地や
市街地に落ちました。

 そのため、

現在の練馬区、
西東京市を中心として、

多くの市民が
犠牲となりました。



 4月7日および12日は、
 
硫黄島から戦闘機P51の
援護をともなってB29が飛来し、

昼間に中高度から

大型の1トン爆弾が
多数投下されました。


<戦闘機P51と爆撃機B29>

 7日は工場内に
集中しましたが、

12日は工場を大きく逸れ、
 
田無駅北側の市街地で
多数の犠牲者を出したほか、

関前高射砲陣地に落下し、
 
兵士や作業員が
多数犠牲となりました。



④ 原爆模擬爆弾と最後の空襲

 その後、
 
中島飛行機武蔵製作所
に対する空襲は、
 
しばらく
ありませんでしたが、



4月以降は、



硫黄島からP51戦闘機が
飛来するようになり、

各地で機銃掃射が
行われるように

なります。


 
 6月には沖縄戦が終結、

いよいよアメリカ軍の
日本本土への上陸

=「本土決戦」 が迫る中、

全国各地の都市が、
 
焼夷弾の空襲を
受けるようになります。



 また、
これと並行して、
 
軍需工場などへの空襲も
激しさを増しました。



 7月末からは、
原爆投下のための
特殊部隊によって、

原爆の投下訓練と
データの収集のため、

全国で約50か所に
原爆模擬爆弾

 (パンプキン爆弾) が
投下されました。



  原爆模擬爆弾とは、
長崎型原爆と
同じ形の爆弾で、

そこに通常の爆薬を
充填したものです。
 


 7月29日、
そのうちの1発が

中島飛行機武蔵製作所を
めがけて投下されました。



 しかし、
目標をはずれて、
 
現在の西東京市柳沢に落下し、

農作業中の女性と子どもが
亡くなりました。



 1945 (昭和20) 年8月6日、
 広島に原爆が、

同9日、長崎に原爆が
投下されます。



その間にも、
全国各地で激しい空襲が
繰り返されていました。



 しばらく空襲のなかった
中島飛行機武蔵製作所にも、

 8月8日、
 
西工場を狙った空襲が
行われました。



 鉄筋コンクリート3階建ての
西工場の3棟目東側は、

この空襲で完全に
破壊されました。



 しかし、
この日の空襲でも、

工場をはずれた爆弾が
関前などに落下し、

大勢の市民が
犠牲となりました。



 なお、 空襲が始まると、
工場疎開も行われました。

 疎開先は、
浅川(現八王子市) や

大谷 (栃木県) のような
地下工場を主としながら、



産業大学(現一橋大学)、

興亜専門学校
 (現亜細亜大学) などの

学校の施設や
町工場などでしたが、

工場の分散や資材不足で

生産能力は著しく
低下しました。


<米軍資料による浅川(現八王子市)工場の地図>

・・・つづく。