東京都三鷹市の「中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点」を慰霊致しましたⅡ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

JR「三鷹駅」より徒歩30分
「都立武蔵野中央公園」内にあります。



◆中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点Ⅱ



<説明版より>

<陸軍専用工場・武蔵野製作所 (のちの東工場) >

 こうして、 1938 (昭和13) 年に
北多摩郡武蔵野町西窪 (現緑町) に、

最初に開設されたのが、
陸軍専用の発動機工場である
武蔵野製作所です。



 この場所が選ばれたのは、
まとまった広い土地が
得られることのほか、

青梅街道を使えば荻窪にも近く、
陸軍所沢飛行場や

群馬県の機体組立工場への
輸送にも便利だったからです。



 武蔵野製作所の
開設当初の建物は、

時計塔を備えた本館など
一部を除き、

鉄骨スレートぶき、
鋸屋根の
平屋建ての建物であり、

面積は12万㎡の
大工場でした。



 後に工場の北側には、
地下1階地上3階一部4階の
鉄筋コンクリート造りで

近代的な建物の組立工場や、
 北西側には、
発動機の試運転工場が
増設されます。



 これらの工場建物は、
地下道でつながれていました。

これは工員たちが
効率的に移動するためと、

 

生産工程で排出される
切子 (きりこ)などの
廃棄物を地下に落とし、

電気トロッコで
回収するためでした。


<黒部峡谷鉄道電気トロッコ>


<海軍専用工場・多摩製作所 (のちの西工場) >

 一方、 多摩製作所は、
1941(昭和16) 年に

海軍専用工場として、
武蔵野製作所の隣接地である

北多摩郡武蔵野町関前
(現八幡町) に作られました。



 地下1階地上3階一部4階の
鉄筋コンクリート造りの
近代的建物でした。

建坪は5万3千㎡ながら、
総床面積は23万㎡に及びました。



 建物は、
東西に翼を広げるように、

6棟が中央部で連結され、
流れ作業で部品を製造し、

組み立てていくシステムに
なっていました。

中央部には、
大型のエレベーターも
設置されていました。



<両工場の合併・武蔵製作所>

 武蔵野製作所と
多摩製作所では、
 
それぞれに、
同じ 「栄」 型エンジンが

盛んに製造されて
いましたが、



陸海軍の間での
秘密保持のため、

二つの工場は
壁で仕切られ、

 技術の開発から
資材の調達に至るまで、

別の組織として
運用されていました。



 しかし、

戦局の悪化する
1943 (昭和18) 年末には、

「行政査察」の結果、
合併が命じられます。

こうして出来たのが
武蔵製作所です。



 合併後は、
武蔵野製作所が東工場、

多摩製作所が西工場
と呼ばれました。



 なお、
1945(昭和20) 年4月、

重要軍需産業の
国営化の方針に基づき、

中島飛行機株式会社は
「第一軍需工廠」となり、

武蔵製作所は
「第十一製造廠」
となりました。

 

<働いていた人は4万5千人とも、5万人とも>



 合併によって
工場に働く従業員は、
 数万人に達しました。

その中には、
国家総動員法に基づく

国民徴用令で
動員された徴用工や、

少年工として
農村などで採用された
青少年も多数いました。



 さらに、
1944 (昭和19) 年4月になると、

 学徒勤労動員が
本格的に始まり、

中島飛行機武蔵製作所にも、



大学、 専門学校、
中等学校などから

 

学生・生徒が
続々と動員されました。



 最終的には、
約40校、数千人に
達したと推定されます。



 最盛期を迎えたこの頃、
中島飛行機武蔵製作所には、



「一機でも多く、戦地に」
という掛け声の下に、



4万5千人から5万人が、
 
2交代あるいは
3交代で働き、



24時間体制で
操業していました。



・・・つづく