東京都三鷹市の「中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点」を慰霊致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

JR「三鷹駅」より徒歩30分
「都立武蔵野中央公園」内にあります。



◆中島飛行機武蔵製作所 爆撃照準点



<説明版より>

ここは、 東洋一といわれた
航空機エンジン工場

=中島飛行機
武蔵製作所の跡地であり、



マリアナ諸島からの
日本本土空襲の

最初の目標
となった場所です。



この都立武蔵野
中央公園の場所には、



戦時中、
中島飛行機武蔵製作所という

東洋一といわれた
航空機エンジン

 (当時は「発動機」
と呼ばれました)
の大工場がありました。



零式戦闘機
(通称 「零戦」) や

一式戦闘機「隼」 の
エンジンも

この工場で
製造されていました。



 そのために、
 
先の大戦末期の
1944(昭和19)
~1945(昭和20) 年にかけて、

 アメリカ軍によって
激しい空襲を受けました。



 アメリカ軍は、

 1944 (昭和19)年7月に
マリアナ諸島サイパン島を占領し、

そこに大型爆撃機
B29の基地を築きます。



 そして、 

同年11月24日には、

 

同島から日本本土空襲を
開始しました。



その最初の目標が、
この中島飛行機武蔵製作所でした。


 

 それ以後、
この工場は合計で
9回の空襲を受け、

工場内だけ
で200名以上の犠牲者、

工場をはずれた
爆弾によって

周辺の地域でも

数百名の市民が
巻き添えとなりました。



 この説明板のある場所は
工場のほぼ中心にあたり、

空襲の際には 「爆撃照準点」
 (Aiming Point) として、
たびたび標的となりました。



一中島飛行機株式会社一

 ここに工場を開設したのは、
中島飛行機株式会社という

戦前日本の航空機製造の
トップメーカーでした。

同社は、 群馬県出身の
海軍機関大尉であった

中島知久平 (1884-1949年) が、



 兵器としての航空機に注目し、

その開発・製造には

民間企業の創設が必要である
という考えから海軍を辞め、

 1917 (大正6)年に
郷里で飛行機研究所を
創設したことに始まります。

 

 やがて、

太田製作所 (陸軍・機体組立)、
 小泉製作所(海軍・機体組立) など

群馬県を中心として、
おもに東日本に展開しました。


<中島飛行機株式会社太田製作所 >

東京では、
1925 (大正14) 年に、
エンジンの設計・製造のため、

東京製作所 (後の荻窪製作所) が
開設されたのが最初です。



 同社は、日中戦争 (1937~45年)、
太平洋戦争 (1941~45年)にともなって
急成長を遂げます。

同社の代表機は、
九七式艦上攻撃機、
一式戦闘機「隼」、



二式戦闘機 「鍾馗」、


<二式戦闘機 「鍾馗」>

四式戦闘機「疾風」、

 

夜間戦闘機「月光」 などです。



 その他に、
三菱重工業株式会社が
開発した「零戦」も、

エンジンはすべて
中島飛行機で製造され、

機体も3分の2が
中島飛行機で
製造されました。

 

 太平洋戦争期には、
 
中島飛行機株式会社と
三菱重工業株式会社の2社で

日本の航空機全製造機数の
6割以上を製造しました。



一中島飛行機武蔵製作所について一

 1937 (昭和12) 年、
日中戦争の始まるこの年、

軍部は航空機各社に対して
増産を要求します。

 

 中島飛行機では、

当初、 東京製作所の
拡張を検討しますが、

 周辺地域の
市街地化のため断念し、
 
北多摩郡武蔵野町に新工場を
建設することとなります。

 

つづく・・・。