東京都小金市にある「加藤隼戦闘隊隊長 加藤建夫の墓所」を慰霊致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

「新宿駅」より
電車30分で
「武蔵小金井駅」。

 

 

「武蔵小金井駅」から
「小金井リハビリテーション病院前」
までバスで10分。

 

 

そこから多磨霊園内へ
徒歩にて5分の
距離にあります。

 

★加藤隼戦闘隊隊長 
 加藤建夫の墓所

 

 

◆加藤建夫

 北海道上川郡東旭川村
(旭川市)出身

1925年(大正14年)
陸軍士官学校37機を卒業

1927年(昭和2年)
所沢飛行学校も卒業。

 

 翌年同校の教官となり、

1932年(昭和7年)
明野陸軍飛行学校教官も経て、

飛行第5連隊中隊長
飛行第2大隊中隊長として
日中戦争で活躍。


<九六式艦上戦闘機:日本軍の訓練や機材の優位性を証明>

 1939年(昭和14年)
陸軍大学専科大卒業し、

陸軍航空本部員を歴任した後

1941年(昭和16年)
太平洋戦争では

飛行第64戦隊長
(4代目の隊長)として、

一式戦闘機式
『隼(はやぶさ)』で

編成された
加藤隼戦闘隊を指揮。



◆加藤隼戦闘隊の伝説

 マレー半島
ジャワー、ビルマ方面で

イギリス軍空軍、
中華民国空軍および

中国空軍を支援した
アメリカ義勇軍と
戦果を重ね

優れた
操縦テクニックにおいて

破竹の勢いで
敵軍を撃ち落とし、

南方侵攻作戦の
成功に貢献。



 1942年(昭和17年)
中佐に昇進。

同年5月22日
ベンガル湾上空でも
戦果を挙げる中、

ブリストル・ブレニウム爆撃機を
撃墜しながら、

 

 

自身も被弾。



 帰投不能に陥り
帰還困難と悟り

また敵勢力地域への
着地を許さず、



自爆の道を選択(享年38歳)



戦死後、
二階級特進し陸軍少将となる。

<死 後>

その活躍は
エースパイロットとして、

『軍神』と称され
軍歌や国定教科書に
掲載される。



 1944年(昭和19年)
『加藤隼戦闘隊』
として映画化。


<『加藤隼戦闘隊』監督:山本嘉次郎、
特撮監督:円谷英二加藤建夫;藤田進、
灰田勝彦、志村喬、大河内傳次郎>


 昭和19年の最も興行成績
を上げるヒット作となり



加藤氏の活躍は
日本中の
誰もが知る者となる。

 

 なお墓は
郷里の旭川市豊岡の

愛宕墓地にも
分骨されている。



<碑 文>

 

 

加藤建夫

 

<碑 文Ⅱ>

 

 

加藤家之墓

 

 

<墓 誌>

 

 

加藤建夫 陸軍少将 昭和十七年五月二十二日
     ベンガル湾アレサンヨウ沖にて戦死
              行年 三十八歳

加藤雄三 昭和六十一年三月十五日アムステルダム
     郊外アウトホルンにて歿す行年四十八歳

加藤田鶴 加藤建夫妻
     平成三年十一月三十日歿 行年八十歳

加藤正明 平成十七年八月十八日歿 行年七十二歳

 

謹んで
祓い、鎮魂を
行わせて頂きました。