東京都小金市にある「日本の飛行機王 中島知久平墓所」を慰霊致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

「新宿駅」より
電車30分で
「武蔵小金井駅」。

 

そこから
「小金井リハビリテーション病院前」
までバスで10分。

 

そこから多磨霊園内へ
徒歩にて11分の
距離にあります。

 

 

ちなみに
「西郷従道墓所」から
徒歩1分の距離にあります。

 

 

◆中島知久平
(なかじまちくへい)Ⅱ

 

<実業家時代>

 知久平は、
大正6年5月、

海軍を待命のまま
群馬県新田郡尾島町前の
養蚕農家の借家に

知久平ら所員わずか9人で
「飛行機研究所」の看板を掲げ、



退役が決定した同年12月に、

太田町の大光院東の洋館に
研究所を移転し、

本格的に飛行機の
研究・製造を開始した。


<大正時代の中島飛行機製作所本社>

 当初は、なかなか

飛ぶ飛行機の製造は叶わず、
大変苦労したが、

大正8年2月、
四型6号機を完成させた。

”飛ぶ飛行機”の完成である。

「以降陸軍から
中島式五型と


<中島式五型>

甲式練習機、


<甲式練習機>

海軍からは
横廠式ロ号甲型水上偵察機、


<横廠式ロ号甲型水上偵察機>

アブロ式練習機や

 

<アブロ式練習機>

ハンザ水上偵察機などの

 

<ハンザ水上偵察機>

大量発注を受け、
中島は活況を呈した。」

 機体の組み立てから始まった
中島飛行機は、

大正13年(1924)

東京府豊多摩郡井荻町
(現・東京都杉並区桃井)

にエンジン工場を作り、

総合航空機メーカーとして
発展を続けることとなる。



中島飛行機では、
航空機用エンジンとして数々の

有名なエンジンを開発・製造した。

中でも海軍名称
「栄」として知られる

空冷星型14気筒エンジンは、



3万台以上が生産され、
九七式艦上攻撃機、

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)、
夜間戦闘機「月光」、

一式戦闘機「隼」など
に搭載された。


<一式戦闘機「隼」>

 その後継として開発された
海軍名称「誉」は、

空冷二重星型18気筒で
「栄」の2倍の馬力を持ち、

局地戦闘機「紫電改」、
偵察機「彩雲」、

四式戦闘機「疾風」
などに搭載された。


<四式戦闘機「疾風」>

  しかしこの「誉」は
当時の工業技術の限界に
挑んだ設計であったため、


<空冷二重星型18気筒エンジン「誉」>

戦争後期の生産資源の
枯渇による原料の不足、

熟練工員の不足による
完成度の低下や燃料の質低下
などによって、

本来持っている性能を
発揮することが
できなかった

悲劇のエンジン
と呼ばれている。



【追記】

 知久平は、
設計室の隣の小部屋を

自分の居室として
寝泊りしていた。

生活全てが
飛行機造りであった。

設計者の図面は
全て最後に
チェックをした。
 


 そして
現場を足しげく
回っていた。 

これは政界に出るまで続き、

またその後も、
来所時には現場周りを
欠かさなかった。



 また知久平は
生活面で奢ることを
ほとんどしなかった。

エンジンの
東京工場の開設後は、

東京に居る事が
多くなったが、

丸の内にある
日本工業倶楽部や

東京の中島事務所で
寝泊りしていた。 



 このように
自宅といえるものを、

政界にでるころまで持たず、

飛行機造りに
徹底していたのだ。



 昭和6年(1931)
会社を株式会社とし、

社長には弟の
中島喜代一が就任したが、


<中島知久平(左)中島喜代一(右)>

この株式会社化は
株式の公開をせず、

会社解体まで
中島五兄弟が所有した

閉鎖的な同族会社であり、



知久平は筆頭株主であり

「大所長

(株式会社前は合資会社
中島飛行機製作所の所長)、

大社長」として、
会社の経営に関わりつつ、



活躍の場を

政界へと
移すことになる。

・・・つづく