東京都小金市にある「日本の飛行機王 中島知久平墓所」を慰霊致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

「新宿駅」より
電車30分で
「武蔵小金井駅」。

 

 

そこから
「小金井リハビリテーション病院前」
までバスで10分。

 

 

そこから多磨霊園内へ
徒歩にて11分の
距離にあります。

 

 

ちなみに
「西郷従道墓所」から
徒歩1分の距離にあります。

 

◆中島知久平<日本の飛行機王>
(なかじまちくへい)



 知久平は、
尾島町押切の農家の

長男として
明治17年(1884)に生まれ、

18歳の時に
軍人を志して上京し、


<海軍大学時代の中島氏>

海軍機関学校を
恩賜の銀時計組で卒業、

欧米に留学すること2回、
また政府委員を拝命、

そして将来の栄達は
約束されている。


<海軍時代の制服姿>

  地元住民にとっても
郷土のホープとして

折にふれ耳目を
集めていたことだろう。 



海軍時代の知久平は、
軍人としての
職責を全うする傍ら、

アメリカ・フランスで
航空機産業の
視察・研究を重ね、


<ライト兄弟。世界初の動力飛行に成功!>

折からの大戦で
大艦巨砲主義を排し、

飛行機の重要性を
説くようになり、


<ドーバー海峡初横断:ルイ・ブレリオ>

「飛行機を大空に飛ばす」

という自身の夢を
現実化することになった。


<1913年海軍横須賀工廠で初めて中島機関大尉主務で設計製作された「日本海軍式水上機」>

 大正6年(1917)3月に
退官した時は機関大尉。

 その時、
先輩友人らに送った

長文の挨拶状「退職の辞」は
行間至る所で

日本の将来のために
民間航空工業の魁と

ならんとする
気概に溢れたもので、


<1915年海軍横廠式中島トラクター試作水上機>

「不肖、爰(ここ)に
大いに決するところあり・・・

海軍における自己の既得

並びに将来の地位名望を
捨てて野に下り、

飛行機工業民営起立を
劃(かく)し、

以ってこれが
進歩発達に尽くす」

ことを高らかに
披瀝したのだった。

 

・・・つづく