東京都小金市にある「西郷従道(じゅうどう)墓所」を慰霊致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

新宿駅より
電車30分で
「武蔵小金井駅」。

 

 

そこから
「小金井リハビリテーション病院前」
までバスで10分。

 

 

そこから多磨霊園内へ
徒歩にて11分の
距離にあります。



◆西郷従道(さいごう じゅうどう)Ⅱ



 この頃、
政府内は「征韓論」を巡り
推進派と反対派で割れ、

結果的に
反対派の意見が通ったため、

推進派の多くは
政府を辞職した。



 兄の西郷隆盛は推進派の
筆頭であり辞職している。

この時、従道は兄に
賛同せずに反対派に回った。

理由は
ヨーロッパ視察をした際に、

征韓論は暴論である
と判断したからである。


<岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文など岩倉使節団>

 共に視察をした
山縣有朋や、

幼い頃から
兄同様に慕っていた

大久保利通も
同じ判断をしていた。



 征韓論による分裂から4年後、
兄の隆盛は薩摩の元軍人たちに
押し立てられる形で挙兵し、

1877(明治10)西南戦争が勃発。



 対峙する山縣有朋は
陸軍卿として九州に出征したが、

その補佐役であった従道は、

1877.2.14 陸軍卿代理に
就任していたが、

東京に残った。



(西郷従道は隆盛の
「おはんな、東京に残れ」
という言葉に従い、

 

明治政府側として

残ったのだとか。)

 結果、西南戦争で
兄の西郷隆盛は自刀。



 その報を聞いた従道は号泣し、
政府を辞職する決意を固める。

しかし、大久保利通が
毎日の説得の末に
思い留まらせた。

明治新政府で改めて
活動する気持ちになった時に、
大久保利通が暗殺される。



 ショックが二倍であったが
大久保が目指す国造りを

引き継ぐ覚悟を
もったとされる。


<1878(明治11)年の5月14日午前8時30分、
大久保利通が乗っていた馬車>


 議定官、近衛都督を経て、

1878.5~1884.2
参議 兼 文部卿、陸軍卿、
農商務卿、再び陸軍卿を務めた。

1884.7.7
華族令制定に伴い
伯爵を叙爵。

 そして
内閣制度発足により、

1885.12.22
初代海軍大臣に
任命された。



 この時、

陸軍中将であったが、

海軍の転籍理由は、
陸軍には山縣有朋や

大山巌の重臣が
いる一方で、


<山縣有朋>

海軍は手薄で
あったため

改革をするための
転籍であった。


<大山巌>

とはいえ、
海軍のことをあまり
知らなかったため、

後に海軍育ての親と
称されることになる

当時大佐であった
同じ薩摩人の
山本権兵衛を抜擢。


<海軍少尉任官当時の山本>

 理論派の山本に
海軍の改革を任せ、

自身はその防波堤として
道をつくってあげた。



 従道は有能な部下を見出して
その者に全て委ね、

もし部下が危機に瀕すれば
それを助けてやり、

失敗すれば自分が責任を取り、

成功すれば手柄は
全て部下のものにする
というやり方であった。



 結果的に
この海軍改革が

日清戦争の勝利に
つながることになる。

 

 

・・・つづく