新宿駅より
電車30分で
「武蔵小金井駅」。
そこから
「小金井リハビリテーション病院前」
までバスで10分。
そこから多磨霊園内へ
徒歩にて11分の
距離にあります。
ちなみに
「岡本太郎・かの子・一平の墓所」から
徒歩4分の距離にあります。
◆西郷従道(さいごう じゅうどう)
1843.6.1(天保14.5.4)
~ 1902.7.18(明治35)
明治時代の陸軍軍人(中将)、
海軍軍人(元帥大将)、政治家。
薩摩國鹿児島城下加治屋町
(鹿児島県鹿児島市加治屋町)出身。
西郷吉兵衛の三男
として生まれる。幼名は竜助。
兄は江戸幕府打倒の
最大の立役者の西郷隆盛。
兄の西郷隆盛が「大西郷」
と称されるのに対し、
従道は「小西郷」と呼ばれた。
なお、従兄弟に大山巌がいる。
1861(文久1.9.30)還俗し、
本名を隆興(隆道)、
通称名を信吾(慎吾)と改名。
島津斉彬を信奉する
精忠組(せいちゅうぐみ)に加入し
尊王攘夷運動に身を投じる。
<精忠組(せいちゅうぐみ):NHK大河ドラマ「西郷どん」より>
1862(文久2.4.23)柴山愛次郎、
柴山良助、
橋口壮介と橋口吉之丞らと
京都伏見の寺田屋に入り、
九条尚忠・酒井忠義を
襲撃する計画を練ります。
そこに島津久光から
中止命令を伝えに来た
森岡昌純ら鎮撫使たちと
同志討ちの激しい
斬り合いが起り、
柴山愛次郎や
橋口壮介らが絶命する
薩摩藩の尊皇派志士の
鎮撫事件
(寺田屋事件)に連座。
西郷は斬り合いに
参戦はせず、すぐに投降。
帰藩謹慎を命ぜられた。
翌年、謹慎も解け、
イギリスの軍艦が
鹿児島湾に侵入した
薩英戦争では
スイカ売りを装った
決死隊に志願。
旧幕府軍と新政府軍の
戦いである戊辰戦争では、
鳥羽伏見の戦いで
貫通銃創の重傷を負うものの
各地を転戦して活躍した。
明治維新の中核となった
薩摩藩の一員として
新政府に出仕。
太政官に
名前を登録する際、
本名の「隆道」(リュウドウ)
と伝えたところ、
薩摩訛りが強く、
役人が誤って「ジュウドウ」
と登録してしまう。
なお兄の隆盛も
本名の隆永(タカナガ)
を友人が間違えて、
父親の名前である
「隆盛」で
登録してしまう。
もっとも二人とも、
この時は
兄は吉之助、弟は信吾という
通称名を使用しており、
武士の家における
肉親しか使わない名前である
諱(いみな)を
誤って登録されただけで、
この時は深く留めなかった。
後々登録されたのが
本名として我々が知る名前となり、
西郷隆盛、西郷従道となる。
1869(明治2)
新政府の兵部省に出仕。
山縣有朋と共に渡欧し
兵制・軍制を調査。
帰国し、1871.7.28 兵部大丞、
同.12.4 兵部少輔、1872.2.27
陸軍少輔 兼 近衛副都督、
同.3.9 陸軍少将となる。
1873~1875
陸軍大輔、
台湾蕃知事務都督、凱旋。
横浜に日本初の
西洋式競馬場
「日本レース・倶楽部」が
発足するや、
日本人初の馬主となり、
1875 愛馬ミカンに騎乗して
日本人馬主による
初勝利をあげている。
<ジャパン・パンチ 1875年11月号 [馬の博物館 展示品]>
・・・つづく