東京都小金市にある「西郷従道(じゅうどう)墓所」を慰霊致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

「新宿駅」より
電車30分で
「武蔵小金井駅」。

 

 

「武蔵小金井駅」から
「小金井リハビリテーション病院前」
までバスで10分。

 

 

そこから多磨霊園内へ
徒歩にて11分の
距離にあります。

 

◆西郷従道(さいごう じゅうどう)Ⅲ

1886.3.16 農商務卿を兼ねた。
 同.7.10 いったん辞職し
     欧州視察を行い、

1887.7.1 再び海軍大臣に着任。

1888.12.25 予備役編入。

海軍大臣の席を
山本権兵衛に譲り、

1890.5.17 内務大臣となる。



 日清戦争を勝利で終わると、
ロシアと緊張状態が起きたため

山本権兵衛は
軍備拡張に努力をした。



 しかし、
戦艦をイギリスの企業に
注文したところ
予算が足りず購入できない。

 頭を抱えた山本は
従道に相談をしたところ、

従道は「予算を流用して
すぐに金を渡しなさい。


<明治38年10月23日、横浜沖で連合艦隊凱旋の観鑑式。>

 次年度の予算を
使ってしまうことは
憲法に違反する行為ですが、

そのことを
議会で責められたら

二人で二重橋の
前に行って
切腹しましょう。



 それで軍艦が
できるなら本望です」と答え、

山本は腹を決めてとされる。

これで誕生したのが
戦艦「三笠」である。



 連合艦隊の旗艦として
日本海海戦で

バルチック艦隊を
撃破した船である。



 1891~1900内務大臣を辞職。

元老として
枢密顧問官に任じられる。

 国粋主義団体の国民協会を設立し、
国民協会会長に就任。

 三度目、海軍大臣となる。

 議定官、海軍大将となり、
臨時で陸軍大臣を兼務した。

 侯爵に陞爵し、
貴族院侯爵議員に就任。

 海軍軍人として
初めて元帥の称号を受けた。

 再び内務大臣を務めた。



 陸軍と海軍の両方で
将官と閣僚になった
唯一の人物である。

 また何度も
総理大臣候補として
推挙されたが、

兄の西郷隆盛が
逆賊とされたことを理由に

全て断った
といわれている。



 これは従兄の
大山巌も同様であった。

〈薩の海軍〉の巨頭として
軍・政界に重きをなした。

 胃がんのため逝去。
享年59歳。

青山墓地に葬られたが、
多磨霊園に改葬された。



 兄の西郷隆盛は
終生写真を嫌っていたため、

キヨッソーネが
隆盛の肖像画を
作成する際、


<イタリア人画家:キヨッソーネ>

首から上は従道、
体の部分は大山巌を参考に
描かれた。



我々がよく見る
西郷隆盛の顔は
その絵である。

 

・・・つづく