◆そして彼のアイドルは去っていった♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

<<John Leeに影響されて>>




彼は1926年7月10日

フォレスト・シティーに近い

アーカンソー州ヒューズで

生まれました。





「そして教育を満足に受けるコトなく、

フィールド労働者として

綿の農場で育ったのでした。」






彼は

地元のジュークジョイントに

通い詰めるコトになります。




(ジュークジョイント)





「そして彼はいつしか

地元のミュージシャンたちを

ヘルプして

彼自身もプレイを

し始めたのでした。」






彼は地元の

ジュークジョイントに

通いながら、


彼はハーモニカとその他の

楽器をマスターしてゆき、


そこで彼は自身のスキルを

磨いていったのです。




「彼は

John Lee "Sonny Boy" Williamson

にかなりの影響を受けました。」




(John Lee "Sonny Boy" Williamson)





それから彼は

まだティーン・エイジャーにも

関わらず、


1940年代の初期には


ツアーを州レベルに

拡大していったのです。






「彼はウィリアムソンの

スタイルとボーカルを


模倣することが出来た

と言われており・・・。」





☆Shake the boogie -
John Lee "Sonny Boy" Williamson♪






それから時間の経過とともに

彼自身のユニークな曲を

開発していったのでした。






「自分の道を探して

放浪の旅を続け、

そこで彼はブルーズ・マンの

Big Joe Williams

に出会い・・・。」




(Big Joe Williams)




そして2人は

一緒にセントルイス地域で

パフォーマンスしたのです。





<<フォレスト・シティ・ジョー2!>>


今回ご紹介するブルーズマンは

引き続き

フォレスト・シティ・ジョーです。




(今回ご紹介するブルーズマンは
引き続きフォレスト・シティ・ジョーです。)






彼は21歳の頃には

ステージネームを

Forrest City Joeとして


シカゴでパフォーマンスを

し始めたそうです。





「地方を放浪して

ブルーズマンたちとの

セッションを繰り返し、


いよいよブルーズのメッカ、

シカゴへ進出ですね。」






そうですね。


そしてその1年後、

彼はある大物ブルーズマンの

レコーディングに

参加するコトになります。




「ホウ」

「ちなみにその

大物ブルーズマンとは

誰のコトを指しているの

でしょうか?」






そのミュージシャンは

Muddy Watersです。



(Muddy Waters)





「 O H ! 」

「あのシカゴ・ブルースの父と

言われたマディですか?」





そうです。




「それは凄い抜擢では

ないでしょうか?」




そうですね。

実は彼は以前

バンドでマディと一緒に

働いていたのでした。




「ホウ」

「今回はそのご縁で・・・。」





そうですね。



彼は同じ時代の

大部分の

シカゴ・アーティストより



地方サウンドを

多く持っていたそうです。





「 O H ! 」

「彼の下積み時代の資産が

生きていますネ!」









そうですね。


ところがその録音には

彼にとってはちょっと

理不尽な録音となったのです。




「エッ!この期に及んでですか?」




そうです。

彼はレコード会社の意向で

あるジャズ・ギターリストと

組むコトになり・・・。



「ハイ」

「で、その内容は?」




彼の場合は、

辛うじて聞き取れる

2、3のコード以外のセッションは

ほとんど何も加わっていない。


そんな立ち位置だったそうです。





「それは非道(ひど)い

お話しですネ!」






そうですね。



マディにしてみても

過去にバンドを組んで、


そして彼のコトを

「偉大なハープ奏者」

として記憶していたらしく、



久しぶりのセッションを

楽しみにしていたと思いますから・・・。





「いや~っ!実に残念です。」





その録音の中から

彼の唯一のセッションで

シングルを録音したのでした。




そして1948年6月1日に

ある事件が起こります。




「ン?」

「また新たな不運が

彼を襲うのでしょうか?」





そうです。


彼のアイドルだった

John Lee "Sonny Boy" Williamson

がセッションから

帰宅途中に



強盗に襲われ

殺害されたのでした。









「それは彼としても

か・な・り・のジョックを

受けたのではないでしょうか。」







そうですね。


そこで彼は

Williamsonの死の直後に

シングル曲

"Memory of Sonny Boy"

b/w

 "A Woman on Every Street"


をリリースしました。








「 O H ! 」

「Williamsonは人気者でしたから

この曲はヒットしたのでは?」





ところがですネ!



「ハイ」



そのセールスは上手く

いかなかったなかったそうです。




「そうですか」

「でも、そう言うコトもありますよ。」





そうですね。

それから彼はメンフィスに

移って、


Sonny Boy Williamson の名前を

借用したRice Millerや、




(Sonny Boy Williamson2)





「 O H ! 」

「Williamson2ですが、

彼、Williamsonに

ご縁がありますね。」






そうですね。


それからHowlin' Wolf

と一緒にラジオ・ショーに

出演したのでした。



(Howlin' Wolf)





「またや大物たちとの共演ですね。」


「これから彼はどんなに

成長してゆくのでしょうか?」


「実に楽しみです!!」








☆Forrest City Joe-
 Levee Camp Reminiscence♪


☆Forrest-City-Joe-
Mean Mistreatin' Woman♪


☆FORREST CITY JOE
 SPECIAL DELIVERY MAN ♪


☆Forrest City Joe -
 Memory Of Sonny Boy ♪


☆Forrest City Joe-
Sawdust Bottom♪












☆フォレスト・シティ・ジョー


Forest City Joe

本名:ジョー・ベニーピュー

Joe Bennie Pugh


(1926年7月10日- 1960年4月3日)




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意味あることとして

マディーウォーターズ



(マディーウォーターズ)



はForest City Joeと

そして

Chess Recordsのセッションで

唯一プレイした。

マディーのこれまでの

プレイの

あらゆるメモを

巻き上げる努力をするならば、

ジョーの仕事はもっと

日の目を見るチャンスになる。



しかし、それゆえに

"Memory of Sonny Boy"

"A Woman on Every Street"

これまでに日の目を見た。



そして、これを書いている時点で、

前者だけはこれまでに

アメリカのCDの上に現れた。
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<キャリア>


1947年に、

彼はForrest City Joeの

ステージネームの下、

パフォーマンスのために

シカゴに移っていった。



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1947年から始まって、

彼はまたシカゴ地域で

働き始めた。


そして1年後

Chess brothers'の

Aristocrat label用の

彼の唯一のセッションが持たれた。




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1948年12月2日に、

ジョーはAristocrat Records

(後のChess Records)で、

彼の唯一のセッションで

シングルを録音した。



Muddy Watersは

録音のために

セッション・ミュージシャンの

一人であることを目標にした。



しかし、

その代わりに彼は



録音にはほとんど

貢献しなかった



ジャズ・ミュージシャンの

J.C. Colesとペアを組まされた。




シングルはセッションから

生じた。


だが、他の曲は

録音の邪魔をしている

ギターリストのために

未リリースだった。



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ジョーはわずか21歳の1948年。


ジョーはその時代の

大部分のシカゴ・アーティストより

地方サウンドを

多く持っていたので、



Chess brothersが

彼を

辛うじて聞き取れる

2、3のコード以外のセッションは

ほとんど何も加わっていない

特別なアカウントに見えた


ジャズ・ギターリストの

J.C. Coles

と組ませたのは

驚きだった。
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彼とWatersは

以前バンドで一緒に

働いていた。


そして、Waters は

”偉大なハープ奏者”の

彼を憶えていたのだ。







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ブルーズ・ハープ奏者

フォレストシティー・ジョーは、

John Lee "Sonny Boy" Williamson

にかなりの影響を受けた。




(John Lee "Sonny Boy" Williamson)




彼は彼の様なプレイを

するだけではなく、

彼の様に歌いもした。



しかし彼は

1948年6月1日に殺された

彼のアイドルとは異なり、







ChessがAristocratとして

知られていた時、


ジョーは彼らの活動の早い持期に

Chess brothers用の録音を

充分長く生きた。




ジョーはマディーウォーターズに

「偉大なハープ奏者」

として記憶されていた。




マディーは12月2日の

ジョーのChessの

主要な録音セッションで

プレイ出来ないことを

寂しく思うだけだった。
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1949年の

 Williamsonの死の直後に

シングル曲

"Memory of Sonny Boy"

 b/w

 "A Woman on Every Street"

は(クレジットは

Forest City Joeの下で)

リリースされた。






だが、

セールスは上手く

いかなかったなかった。




彼は Howlin' Wolf



(Howlin' Wolf)




と Sonny Boy Williamson の名前を

借用したRice Miller



(Rice Miller”Sonny Boy Williamson”)




と一緒に出演するために

短い間メンフィスに移った。


ラジオそして

Willie Love's Three Acesで

Sonnyと一緒に

仕事を受けたのだ。



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彼はまた、

ウエスト・メンフィス地域での

ラジオ・ショーで

Howlin' Wolfや

 Sonny Boy "Rice Miller" Williamson

(aka Sonny Boy II) と一緒に

出演した。
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                     (ウィキペディアより抜粋)

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