◆彼はブルーズのプレイを放棄した♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。



<<ストリートでスタイルを作り>>





彼は8人兄弟のひとりとして

生まれました。




「そして、祖母の元で育ちました。」






彼の音楽の原体験は

教会でした。




「スクウェアーダンス曲


そしてマーチを

スピリチュアル歌の


活発なコンビネーションで

拾ったのだそうです。」





でも、彼は失明して

しまいました。









「それでも彼は

彼は5歳で

ハーモニカを吹いて、

6歳でバンジョー、



そして7歳で

ギターを弾き、


そして10歳になる前に

自前のギターを制作します。」





14歳の頃には

ストリング・バンドを組んで

サウスカロライナ州を

巡業しました。





「彼は20歳の頃には、

ブルーズの中で誰もが持つ

最も先進的なテクニックの

ひとつを持っていたそうです。」






20歳代中頃に

彼はダラムに移り、




そこで多くのストリート・

ミュージシャンたちと

コラボして、



ストリートでの

彼らのスタイルを

確立していったのでした。





<<レヴァランド・ゲイリー・デイヴィス3>>


今回ご紹介するブルーズマンは

引き続き

レヴァランド・ゲイリー・デイヴィスです。




(今回ご紹介するブルーズマンは
引き続きレヴァランド・ゲイリー・デイヴィスです。)





彼はダラム滞在中に

最初の妻をめとります。




「 O H ! 」

「最初と形容するトコロが、

ちょっとスッキリしませんが・・・。」





ご察しの通りです。

彼は結婚までしたのですが、



その妻が不貞を働いたコトが

発覚しまして・・・。





「ハイ」





彼は彼女のもとを

去っていったのだそうです。





「そうですか。」


「理由はどうあれ、

ハッピー・デボース(離婚)

であるコトを望みます。」






そうですね。

その離婚の影響からでしょうか?



彼は1933年に引っ越して

ノースカロライナ州ワシントンの

教会の担当牧師になりました。




(彼は1933年に引っ越して
ノースカロライナ州ワシントンの
教会の担当牧師になりました。)





「 O H ! 」




彼は長い間ダラムで

彼は歌う福音の伝道者として

ツアーを行い、


その上、

ストリートでも歌ったそうです。





「いいですね。」



「離婚をバネに

新たなエネルギーに転換して、


ツアー、パフォーマンスと

活躍したいったのですね。」






そうですね。

それから1935年には

レコード会社に招かれて

録音のために

ニューヨークにツアーしました。





「 O H ! 」

「次第に人生に

勢いが増してくる時なのでしょうか?」





そうですね。



で、ところがです!




「ハイ?」





そのレコード会社が提示した

彼の録音についての支払いは、



とても公正とは言えず


決して合意出来るモノ

ではなかったそうです。






「 O H ! 」


「離婚の失意から脱して

ようやくエンジンが

かかってきたかに見えた

その矢先に・・・。」





そうです。

それで彼はしばらく

録音から遠のいたのでした。





「それはまた失意の生活の

始まりなのでしょうか?」





それはどうでしょうか?



そして彼は1937年に

ダラムでバプテスト派の

牧師になったそうです。








「彼、またダラムに

戻ったのでしょうか?」




そこのところが

ハッキリしないのですが

彼は同年に後妻をめとります。




「 O H ! 」





それから彼らは

ニューヨーク州へ

移っていったそうです。




「2人揃って新天地での生活ですか!」

「いいですね。」




そうですね。

そこは彼が繁栄する

音楽ビジネスと接触するには

都合が良かったそうなのです。





「なるほど」





1940年には

ハーレムへ引っ越して、


そこで彼は牧師になり

その上ギターも教えたそうです。




「 O H ! 」


「彼の教師としての一面が

育まれる展開ですね。」




そうですね。


そんな中でも

彼が頑(かたく)なに

守ったコトがあります。




「それはいった何でしょうか?」




彼は通常、

どんなブルーズでも

演奏することを拒否したそうです。




(彼は通常、どんなブルーズでも
演奏することを拒否したそうです。)






「ウ~ン」





なぜなら

改宗と聖職授任の後、

彼はインスピレーションを与える


ゴスペル音楽の選択を

表現し始めたと言われています。





「このまま彼は

ゴスペルの傾倒して、

ハーレムの街角で



演奏と説教三昧

(せっきょうざんまい)の日々を

送ってしまうのでしょうか?」







☆rev. Gary Davis -
 West Coast Blues (banjo) ♪


☆'Cross And Evil Woman Blues'
REVEREND GARY DAVIS, Blues Guitar Legend ♪


☆Feel Just Like Going On -
Reverend Gary Davis  ♪


☆Reverend Gary Davis-
Cincinnati Flow Rag  ♪


☆'The Angel's Message To Me'
REVEREND GARY DAVIS, Blues Guitar Legend  ♪










☆レヴァランド・ゲイリー・デイヴィス

Reverend Gary Davis



本名:ゲイリー・デイヴィス

 
(1896年4月30日 - 1972年5月5日)




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ゲイリーデイヴィスの

フィンガーピッキング・

ギターのスタイルは、


Jerry Garcia, Ry Cooder,



(Jerry Garcia



(Ry Cooder)




Dave Van Ronk,



(Dave Van Ronk)




そしてBob Dylanなどの



(Bob Dylan)




多くの他のミュージシャンたちに

影響を与えた。





これらのミュージシャンたちは

世界規模の観衆に

彼のブルーズ的ゴスペルの

メッセージを送り届けた。





"Baby let me lay it on you,"

 "Candy Man,"

そして "Samson and Delilah"

の様な曲は、

アメリカン・フォーク・ブルーズの

一般の認識を定めたのだ。

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「デイヴィスの中で私たちは

完全なミュージシャンに出会う。


作曲家はすべての音楽の

ディテールに気づき、

新たな可能性を探った。



デイヴィスはRobert Johnsonとして

喝采を持って迎えられなかった。



(Robert Johnson)




それでも、彼だけは

生涯、他のほとんど全てを凌ぐ

技巧を貫いた絶頂へと

多くの伝統を連れてきたのだ。」


・・・Allan Evans






< 略 歴 >



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デイヴィスは、

地元のビジネスマンの支援で、

30年代に初めて

レコーディング・スタジオに入った。





デイヴィスは、

American Record Company label用に

ブルーズとスピリチュアルの

入混ざったカットを行なった。



しかし、

録音に対しての支払いについての

公正な合意は

決して出来るモノではなかった。



そして、

これらのセッションの後、


彼が再びスタジオ入りしたのは

19年前だったのだ。



その期間の間に、

彼は多くのチェンジを経験した。




多くの他の通り大道芸人のように、

デイヴィスは常に

彼のブルーズとラグタイム曲の中で

ゴスペルを散在させた。


そして、警官が

彼を遮ることを困難にしたのだ。


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ダラムにいる間、

デイヴィスは彼の最初の妻に出会った。


結婚をしたのだが、


彼女が不貞を働いた

と言うことを発覚した後に

彼女のもとを去っていった。





それから、彼はノースカロライナ州

ワシントンへ引っ越して、


1933年、聖職を授けられ

Free Baptist Connection Churchの

担当牧師になった。
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そして、1933年に、彼は

ノースカロライナ州ワシントンの

Free Baptist Connection Church

として運命づけられた。




長い間、大部分はダラムで、

彼は歌う福音の伝道者として

ツアーを行い、


その上、ストリートでも歌った。




この間に、通りを渡った。

そして結局 Blind Boy Fullerや



(Blind Boy Fuller)




Brownie McGhee や Sonny Terryの



(Brownie McGhee)




(Sonny Terry)




ピオモンテ・スタイルの

ミュージシャンたちと

録音した。

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1935年にブラインド・ボーイ・フラーと

レコーディングをした時には

ブルースも吹き込んでいます。



その後は、ニューヨークのハーレムや

ブルックリンの街頭で説教をしては、

ゴスペルを歌っていました。
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デイヴィスとBlind Boy Fullerは

American Record Company用の

録音のために1935年

ニューヨークにツアーした。



Fullerと他のブルーズシンガーの

Bull City Redが

これらのセッションの

より有名な参加者であったが、



(Bull City Red)




デイヴィスは

 "I Saw the Light,"

 "I Am the Light of the World,"

そして "You Got to Go Down." など



彼らの中で

15トラック録音することが出来たのだ。




この種の音楽を録音した

他のミュージシャンたちは

ギターリストBrownie McGheeや

彼のパートナーで

ハーモニカプレイヤーの

Sonny Terryを含む

"Piedmont style,"で

知られる様になった。
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1935年、

地元のアーティストを支援する

という評判をもつ店長のJB Longは

彼, Fuller そして Red を

American Record Companyに招いた。





以降のレコーディング・

セッションは

彼ののキャリアと

彼のComplete Early Recordingsの中で

聴くことが出来き

それは本当の始まりを示している。




ダラムにいる間に彼はキリスト教に

改宗した。:1937年、

彼はバプテスト派の牧師になった。



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彼はよりまじめに

ゴスペルの要素をとり始めた。

そして、1937年に、

彼は聖職を授けられ牧師になった。

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彼の改宗と聖職授任の後、

彼はインスピレーションを与える

ゴスペル音楽の選択を表現し始めた。




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1940年までに、デイヴィス師は

ニューヨーク市へ行く道のりを見つけた。


そこで、彼は

Missionary Baptist Connection Churc

の牧師に任命された。




ここで、彼の録音のキャリアは本格化した。

最初は、Asch とFolkways Records

(現在Smithsonian/Folkwaysで利用)

そして、後にPrestige

(現在Fantasyで利用可)だった。

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1937年に、デイヴィスは彼の後妻

Annie Wrightと結婚した。

そして、一緒に、彼らは

ニューヨーク州ママロネックへ

移った。


そこで、彼女は家政婦として

仕事を見つけた。




Long Island Soundの

街のロケーションは、


そこの繁栄する

音楽ビジネスと接触しており、


デイヴィスが身を置くには

ニューヨーク市へ十分の距離だったのだ。






彼は再び録音を始めた。

プロデューサーMoses Asch

そしてレコードレーベルの

Folkways とPrestigeために。





1940年に、デイヴィスと彼の妻は、

彼らが次の18年の間住んだ

169番街の家のある

ハーレムへ引っ越した。



そこでは、デイヴィスは

ニューヨークの

Missionary Baptist Connection Churchの

牧師になった。


そしてその上ギターを教えた。
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その後、彼は通常どんなブルーズでも

演奏することを拒否した。


デイヴィスは40年代前半に

ニューヨークへ引っ越して、

ハーレムの街角で

演奏と説教をし始めた。




彼は1940年代の終わりに

1対のゴスペル曲で再び録音を始めた。


だが、彼の仕事での

本当の支持者が

新しく育ち始めたのは



1950年代半ばまで

待たなくてはならなかったのだ。

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1940年代には、

ダラムのブルーズ・シーンは落ち始めた。



そして、彼は1951年(1940年?)に

ニューヨークに移住した。





彼の「再発見」の数年前に、

彼の口述歴史は

300+ページのタイプ原稿に



彼らの会話を筆記した

Elizabeth Lyttleton Harold

 ( Alan Lomaxの妻)

によって記録されたのだ。


                      (ウィキペディアより抜粋)

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