◆震えるほどハート!燃え尽きるほどシャウト!! | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<時代遅れのシャウター!>>




1949年にヒット曲をリリース。




(Jimmy Witherspoon
- Ain't Nobody's Business)




☆Jimmy Witherspoon
- Ain't Nobody's Business♪







「1950年代に入っても

彼の個性が光る曲を


ヒットさせるコトに

成功しました。」








ようやく流れに乗ってきたかに

見えた彼でしたが、




1950年代の中頃には

彼の生き方そのものとも言える




 "ブルーズ・シャウター"

としてのスタイルは、




時代に遅れてしまったのでした。







「これは彼としても

カ・ナ・リ・のショック

だったのではないでしょうか?」






「でも、その原因と言うのは・・・?」








そうですね。

過去ご紹介した

ブルーズ・マンたちも



業界より一時的にも

身を引かせる結果となった、



”ロックンロール革命”の

*台頭(だいとう)です。







(”ロックンロール革命”の台頭(だいとう)です。)






*台頭(だいとう)とは?


「 頭をもたげること。勢いを増してくること。」








「やっぱり・・・。」







その”ロックンロール革命”の

渦中においても



彼のアイドル、

ビッグ・ジョー・ターナー

などの転向は比較的スムースだった様です。






(ビッグ・ジョー・ターナー)






「40歳過ぎて

ロック・アイドル・デビューは

伊達(だて)ではないですね。」





「いや~っ!なかなか、

侮(あなど)れない存在です。」








そう言った意味でターナーは

商業的にも

プロフェッショナルな存在でしょうね。







「確かにです。」



「一方、彼の方はメジャー路線から

外れるコトになったワケですが・・・。」







彼は自分の特性をある意味

自覚していたのでしょう。






「ハイ?」






彼の曲は

ロックンロールと言うよりは・・・。



そのリッチでスムースなヴォーカルは

よりジャズに適していたと言われています。







「 O H ! 」







彼は自身の活躍の場を

ほとんどが黒人客の

小さなクラブでの演奏を選んだ様です。






「いいですね。

メインストリームからは外(はず)れて

規模は小さくはなりましたが、



それでも音楽を続けていく!

その姿勢は素晴らしいです。」








それからジャズへの傾倒は

彼を再びメジャー路線に

返り咲かせるのでした。




それは1959年の

ジャズ・フェスティバルに出演したコトが

契機となりました。






<<ジミー・ウィザースプーン-ファイナル!>>



今回ご紹介するブルーズ・マンは

引き続き

ジミー・ウィザースプーンです。




(今回ご紹介するブルーズ・マンは
引き続きジミー・ウィザースプーンです。)







それから彼は大手レコード会社と

契約するコトになり、


それから彼はより大きな場所で

観衆を前に歌を聴かせ始めたのです。






「着実にキャリアを積み重ねてゆく、

それはゆっくりかもしれませんが・・・。」




「非常~に良い感じです。」






他の多くのブルーズマンたちと

同じようにヨーロッパへのツアーにも

参加して、そこで録音も行っています。






(Spoon Sings and Swings (1966))







1970年代には

ラジオ番組を主催したり、


映画にも出演しています。





(映画”The Black Godfather”)






「アルバムのリリースは

どうでしょうか?」







もちろんアルバム・リリースもして、





(アルバム”Guilty!”)






ギターリストやピアニストを

フューチャーして


彼のバンドと共に録音、

そしてツアーも行いました。







「時間が経つにつれて

彼のキャリアは

益々拡がっていますね。」









そうですね。





実は彼は1970年代の後半に

咽喉癌と診断されて、




診断では”もう歌えなくなる!!”




その可能性に直面していた時期が

あったそうです。







「それは・・・。」



「今までの彼のキャリアを考えますと、

歌なき彼は、

恐らく・・・。

翼をもがれた鳥に等しいのでは・・・。」







(歌なき彼は、恐らく・・・。
翼をもがれた鳥に等しいのでは・・・。)







そうですね。



彼は英国での喉の手術と

放射線治療のためにスタジオ入り

出来ない事態になったそうです。






「すると、例え発声したとしても

声の調子も以前と比べて

変わってくるでしょうカラね。」







そうですね。


そのコトについて彼は、

こう言っています。




”私は再び、

すべてにわたって

歌うことを学ばなければならなかった"









「再び歌う可能性を否定されて

手術、放射線治療を受けながら、


それでもなお!



歌うコトについて

彼はその希望を捨てていないですね!!」





「更に彼の歌に対する

真摯な態度が泣かせますネ!」








そうですね。


その努力の甲斐もあったタメでしょうか?



神様は彼にひとつのプレゼントを

贈ってくれたのでした。






「神様から彼へのプレゼント?」


「それは、何でしょうか?」





彼は復帰して

気づいたそうです。






「ハイ」






その手術を受ける前と比べて

それ以後の彼の状態は、



それまで到達するコトの出来なかった

低音域に達する音域を

手に入れていたそうです。








「と、言うコトは・・・。」








ハイ!






「彼のパフォーマンスに

今まで以上に、

幅が出てきたと言うコトでしょうか!!」







そうです。




そして彼は40年以上の間も

活発な表現を通して、


彼のスタイル”シャウト!”を

歌い続けてきたのでした。








☆Jimmy Witherspoon
- Aint Nobody's Business ♪



☆Eric Burdon & Jimmy Witherspoon
- Soledad (1971) ♪



☆Jimmy Witherspoon
- I'm Gonna Move To The Outskirks Of Town (1989) ♪



☆Jimmy Witherspoon 1997(亡くなった年),
Maribor Slovenia♪











☆ジミー・ウィザースプーン JIMMY WITHERSPOON



(1920年8月8日 ? 1997年9月18日)




アメリカン・ジャンプ・ブルーズ・シンガー

1923年米国アーカンサス州生まれ。




1940年代にR&Bシンガーとしてデビューし、




1949年には「エイント・ノーバディズ・ビジネス」で

ビルボードのR&Bチャートに

34週も留まるヒットを飛ばした。




☆Jimmy Witherspoon
- Ain't Nobody's Business







1959年にモンタレー・ジャズ・フェスティバルに

出演しジャズ界からも注目を浴びた。





1997年にはアルバム

『ライヴ・アット・ザ・ミント』で

グラミー賞にノミネートされるも

同年9月に死去。





(『ライヴ・アット・ザ・ミント』)





"スプーン"の愛称で親しまれた。






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彼のアイドルブルーズ・シャウター

Big Joe Turnerと違い、




ウィザースプーンはそれまで

国を席巻していたロックンロールに

転向するのに苦労していた。




ターナーの曲は

"Shake, Rattle, and Roll,"


"Honey Hush,"


そして "Flip, Flop and Fly,"

を含むヒットだった。



これらは成長してゆく

ロックンロール・シーンの中で、

一種の父親代わりと考えられていた。







そこでウィーザスプーンの曲は

リッチでスムースなヴォーカルは

よりジャズに適していたのだった。




実質的に、ジャズとロックの観客に

ジェイ・マクシャンのような、





(ジェイ・マクシャン)





スイング・ブルーズ・バンドは

財政難による失速を伴って無視された。






残りの1950年代ウィーザスプーンが


大部分は黒人客向けに演奏する

黒人が所有する

小さなクラブのネットワークの

 chitlin circuitで

演奏する姿が見つけられた。





しばらく、彼はベースを演奏して、

ケンタッキー州ニューポートの

クラブで歌った。




小さなバンドはまた有名な

ブルーズ・ピアニスト

 Charles Brown

フューチャーさせた。




(Charles Brown)





しかし、1959年にスプーンは、


テノール・サックス奏者 Ben Webster





(Ben Webster)





トランペット奏者 Roy Eldridge




(Roy Eldridge)






アルト・サックス奏者Coleman Hawkins





(Coleman Hawkins)






クラリネット奏者 Woody Herman




(Woody Herman)






トロンボーン奏者Urbie Green




(Urbie Green)





そしてピアニストEarl "Fatha" Hinesら





(Earl "Fatha" Hines)







とのオールスター・グループと一緒に

 Monterey Jazz Festival への出演を

誘われたのだった。






電撃的なパフォーマンスは、録音され

”Jimmy Witherspoon at Monterey”として

リリースされた。






(”Jimmy Witherspoon at Monterey”)






ブルーズ入りジャズの

一流の歌手の一人としての

脚光をウィザスプーンへ駆り立てて

彼のキャリアを軌道に戻したのだった。


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だが、1959年の彼のアルバムで人気を戻した。

そのアルバムは

”Witherspoon

at the Monterey Jazz Festival”で



 Roy Eldridge, Woody Herman, Ben Webster,

 Coleman Hawkins, Earl Hines


そして Mel Lewis

その他をフュチャーしていた。





(Mel Lewis)






彼は後にGerry Mulligan, Leroy Vinnegar,





(Gerry Mulligan)







(Leroy Vinnega)







 Richard "Groove" Holmes 






(Richard "Groove" Holmes)







そして T-Bone Walker

らと録音した。






(T-Bone Walker)




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スプーンは Atlanticとのレコード契約を

ものにして、より大きな場所で

観衆に歌を聞かせ始めた。



1960年のMonterey Jazz Festivalでは、

Jon Hendricksの歴史的なプログラム

 "Evolution of the Blues,"で

フューチャーされた。





(Evolution of the Blues)





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< ツアーと成功 >



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多くのジャズやブルーズ・パフォーマー

の様にウィザスプーンは

特にヨーロッパで成功をおさめて


そしてツアーをして、

1960年代初期からしばしばそこで

録音をした。




彼がレコードとツアーを続けているが、

レコード・チャートでの成功は、


ウィザースプーンには

説明しにくいコトが分かった。



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1961年に、彼は Buck Claytonとヨーロッパを

ツアーして、多くの場面に英国に戻ってきた。





(Buck Clayton)







それはテノール・サックス・プレイヤーの

Dick Morrissey's quartetと共に

英国録音Spoon Sings and Swings (1966)を

60年代中頃を特徴づけた。








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1970年代に、ロサンゼルスで夜遅く

ラジオ・ブルース・プログラムを主催していて、

映画”The Black Godfather”に出演しながら、



ウィザースプーンは、歌で1960年以来の

彼の最初のチャートの成功を収めた、


Capitol Recordsの

"Love is a Five Letter Word"





("Love is a Five Letter Word")






曲はR&Bチャート31位のヒットだったが、

ウィザスプーンのキャリアを

少し高めた。




しかしながら、彼は

録音して、そして熱心に

より小さい観衆のために

パフォーマンスを続けた。


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1970年は彼は再び,

Dick Morrissey,  Terry Smith

を含む英国ジャズ・ミュージシャンたち



と共にTo Seek a New Home を録音するために

 Brother Jack McDuffの London Blue Note に

現れた。






(To Seek a New Home)






1970年代に彼はまたアルバム”Guilty!”

(後にブラック&ホワイト・ブルーズとして

CDでリリースされた。)

Eric Burdonと共に、

Ike White & the San Quentin Prison Band

をフュチャーして録音された。





(Eric Burdon & Jimmy Witherspoon )





☆Eric Burdon & Jimmy Witherspoon
- The Time Has Come.wmv









それから彼はRobben Ford と Russ Ferrante




(Robben Ford)






(Russ Ferrante)





をフュチャーして彼のバンドと共に

ツアーをした。




この期間から”スプ-ンフル”

Robben Ford, Joe Sample,





(Joe Sample)





Cornell Dupree, Thad Jones




(Cornell Dupre)





(Thad Jones)





そして Bernard Purdieを引き連れた

スプーンがフュチャーされた。





(Bernard Purdie)






彼はパフォマンスを続けて

そして1990年代を録音していった。







ウィザースプーンとの共演者たち

Jimmy Rowles, Earl "Fatha" Hines,

Vernon Alley, Mel Lewis, Teddy Edwards,



Gerald Wiggins, John Clayton, Paul Humphrey,

 Pepper Adams, Kenny Burrell,

Harry "Sweets" Edison, Jimmy Smith,



Long John Baldry, Junior Mance,

Ellington bassist Jimmy Woode,

enny Clarke, Gerry Mulligan, Jim Mullen,



Count Basie, Van Morrison,

Dutch Swing College Band, Gene Gilbeaux

そしてその他を含んで録音された。











< 来日ツアー >


日本へは、1964年にカウント・ベイシーと

来日したほか、




(カウント・ベイシー)





1987年にはソロ公演のために来日している。










< ラスト・アルバム&コンサート >





ラスト・アルバムとなったのは、

バックにはデューク・ロビラードの

バンドが付いた"Spoon's Blues"。






("Spoon's Blues")






8月9日のロサンジェルスの

ハウス・オブ・ブルースの公演が、

彼の最後のステージとなった。






このコンサートには、

彼の息子の

ラッキー・ウィザースプーンも登場し、

父親のバンドで歌ったそうだ。







< 役者として >


1995年の映画”Georgia”で

ウィザースプーンは旅をしている

銃収集趣味のブルーズ・シンガー

”Trucker”を演じた。






(”Georgia”)





映画の中で

彼はJennifer Jason Leigh演じる

トラブル・キャラクター”Sadie”

との関係を持つコトになる。






(Jennifer Jason Leigh)







< ガンへの恐怖 >




1970年代後半で、

ウィザースプーンは、

咽喉癌と診断され、



再び歌うことができない

可能性に直面していた。




しばらくの間、

彼は飲み込むことが

できなかったのだ。






イングランドでの喉の手術と

放射線治療は、


fewyears用のレコーディング・スタジオと

クラブの中にウィザースプーンが入れないために、


ベテランの歌手のダイナミックなスタイルに

被害を与えた。





"私は再び

すべてにわたって

歌うことを学ばなければならなかった"と、



彼はプライベート音楽プロモーション伝記に

ジョエル・シルバーに告白した。








彼の歌が元あったトコロに戻った後、


ウィザースプーンは彼が手術以前に

到達できなかった

低い声の音域に

達する可能性に気がついた。










1990年代半ばウィザースプーンは

シンガーのVan Morrisonとのツアーなど

最も活発で、


ウィザースプーンが出演したアルバムで、

モリソンの”A Night in San Francisco”

をサポートしたり、






(”A Night in San Francisco”)

同じくウィザースプーンの過去のアルバムと

最近のリリースの販促するため、

彼自身のヘッドライニング・ギグを行った。







”Live at the Mint,”の様な

ギターリストのRobben Fordとの

ライブ・アルバムは最も歓迎された。







彼のルーツへの復帰は

しかし、よりアップビートな感じで

フォードと彼のバンドの好意によって、


ウィザースプーンは

その活発な表現を通してシャウトした。




そして、その曲の幾つかを

彼は40年以上の間、

歌う続けていたのだった。








”スプーンのスゥイング・ジャズの感性は

シカゴへのBasieの 'Goin'


☆Goin' To Chicago Blues♪


の様な曲の

フロントとセンターだ。”






そして彼の代表曲

'Ain't Nobody's Business,'"

Down Beatの評論家Michael Pointは記した。







しかし、説得力のある

ブルーズ・ムードの中へ

散りゆくタメに、


彼はその実力を失うコトはなかった。






Big Bill Broonzyの古典を揃え、





(Big Bill Broonzy)





そしてGoin' Down Slow'の



☆Jimmy Witherspoon
- Goin' Down Slow ♪





彼のパワフルな解釈によって

十二分に示された様にだ。







アルバム”Live at the Mint”は

ハーモニカ奏者のJunior Wellsによって

落選したのみで、



グラミー賞の

ベスト・トラディショナル・

ブルーズ・レコーディングに

ノミネートされ続けた。






しかし、アルバムと

グラミー賞のノミネートへの

温かな歓迎は、

ファンのグループため

ウィザスプーンについて

紹介または再紹介を多くなされたのだった。







< 死 去 >



ウィザースプーンは 1997年9月18日

カリフォルニア州ロサンゼルスで

咽喉ガンにより亡くなった。



                         (ウィキペディアより抜粋)

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