◆そして成功の矢は放(はな)たれた♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<子供の頃から歌うコトが大好きで・・・>>





「子供の頃から歌うコトが大好きで・・・。」






聖歌隊で歌いつつ・・・。






「歌のコンペで優勝してから・・・。」






更に歌が好きになり・・・。







「意を決してロスに

逃げてきたは良かったのですが・・・。」







実はどの様に歌ったら良いのか

彼自身そのイメージが

掴(つか)めずにいました。







「なにより彼は

”ブルーズがダーティ・ワード(禁句)だ!!

と言われていたのでしたね。」







そうです。







「そこに救世主の登場です。」







その救世主の名は

ビッグ・ジョー・ターナー






(ビッグ・ジョー・ターナー)







「彼はターナーのスタイル

その全てに熱狂して、

ターナーは彼のアイドルになったのでした。」








それでいきなりシンガーとして

お仕事に就けるかと言うと・・・。







「*そうは問屋(とんや)が

卸(おろ)さないですからネ!」







*そうは問屋がおろさない

「そう簡単には、コトは運ばないということ」







彼は仕事を転々として

密かに機会を待っていたのです。







「そんな彼に

チャンスが出現しましたね。」








そうです。

彼は、インドのカルカッタでの

休暇の時にビッグバンドとの

セッションを経験するのでした。











「それは彼にとって

シンガーとしてやってゆける

自信になりました。」








更にその公演の様子は

第二次世界大戦の間に、



米軍ラジオ・サービスで

定期的にラジオで放送されたそうです。






<<ジミー・ウィザースプーン続く!>>



今回ご紹介するブルーズ・マンは

引き続き

ジミー・ウィザースプーンです。




(今回ご紹介するブルーズ・マンは
引き続きジミー・ウィザースプーンです。)







それで・・・。」


「なかなか良い流れが

来ていると思いますが・・・」








そうですね。



彼は商船の任務が終わり

サンフランシスコへ引っ越して



週末はクラブで歌う生活を

続けていたそうです。







「いいですね。」




「少しでもライブを経験し続けるコト。」




「これは規模は関係なく

大切なコトではないでしょうか?」







そうですね。



ライブを繰り返すコトで

彼のシンガーとしての

技術は基より



そのモチベーションを保つコトにも

なったでしょうから・・・。







「なるほど」







いつもの様に彼が

クラブで歌っていますと、



ある有名バンド・リーダーが

彼の歌の興味を持ってくれたのでした。






「 O H ! 」



「シンデレラ・ボーイ・ストーリーの

予感がします!」(^^)







「で、そのバンド・リーダーとは?」







ジェイ・マクシャンです。





(ジェイ・マクシャン)






マクシャンは彼の

歌が相当気に入った様で、






「ハイ」





レコーディングのときに、

それまで雇っていたシンガーを

降ろして、

代わりに彼を抜擢したのです。







「それは凄い気に入り様ですね。」







でも、彼はバンド・リーダーですから

いきなり彼にすべてを任せるコトに

難色を示したのです。







「確かに業界では通例になっているコトや

ヒットする仕掛けなどなど

もろもろのコトがあると思いますので、



いきなり新人に丸投げなどと言うコトは

まかり間違ってもナイですよね。」








そうですね。


レコーディングときに彼は

その曲は恐らくポイントとなる

曲かとは思いますが・・・。






「それは・・・」







その曲にファンがついていて

急に曲調を・・・。



新人シンガーそのもののカラーを出すには

少し危ぶまれるケースです。






「なるほど」


「既についているファンを裏切るには

余りにリスクが高いと言うワケですね。」







そうです。



それでマクシャンは

彼に前のシンガーのスタイルでの

歌い方を指示したのでした。






「それは致し方のないコト

ではないでしょうか?」






そうですね。


でも、彼は自分のスタイルを通したそうです。






「以外に頑固ですね。」







こればかりは

彼のシンガーとしてのスタイル・・・。




つまりは”彼の生き方そのもの”・・・。

そう思われるのです。






「と言うコトはですね。」



「彼に歌うスタイルを変えると

指示するコトは・・・。」








”彼の生き方そのものの変更を指示する

と言うコトだったのでは

ないでしょうか?






「それでは彼としも

頂けないでしょうね。」






そうですね。

やがて彼はマクシャンの下を去って

ソロ・シンガーとしての道を

選択していったのです。






そして彼はヒット曲の恵まれました。





「 O H ! 」






ブルーズ・シンガーの

ベッシー・スミス



オリジナル・レコーディング曲

"Ain't Nobody's Business,"





(Bessie Smith-"Ain't Nobody's Business,")





スプーン・ヴァージョンです。






(Jimmy Witherspoon - Ain't Nobody's Business)




☆Jimmy Witherspoon
- Ain't Nobody's Business








「 O H !! 」






これは1949年

ビルボードのR&Bチャートで

第1位のヒットとなって、



その後34週もランクインされ、

当時最大のヒット曲として

知られるようになったそうです。






「それは凄いですね。」






それからも彼は

曲をヒットさせ続けました。






「ようやく成功の矢が放たれた

と言う感じでしょうか?」








(「ようやく成功の矢が放たれた
と言う感じでしょうか?」)






そうですね。


そんな彼でしたが・・・。






「 ハ イ ? 」







モノゴトには

流行(はや)り廃(すた)り

と言うのが常ではないでしょうか?







「確かに言ってみれば

*水物(みずもの)でしょうからね。」







*水物(みずもの)

「そのときの条件によって変わりやすく、

予想しにくい物事。」







「と、言うコトはですね・・・。」






そうです。


1950年代中頃には、

彼の恐らく”生き方”とされる

歌のスタイルが流行遅れになってしまった。


その時期を迎えるコトに

なったのです。










☆Jimmy Witherspoon & Jay Mcshann
- Destruction Blues♪



☆Jimmy Witherspoon - Backwater Blues ♪


☆Jimmy Witherspoon Real Ugly Woman 1951






☆ジミー・ウィザースプーン JIMMY WITHERSPOON




(1920年8月8日 ? 1997年9月18日)




アメリカン・ジャンプ・ブルーズ・シンガー

1923年米国アーカンサス州生まれ。




1940年代にR&Bシンガーとしてデビューし、




1949年には「エイント・ノーバディズ・ビジネス」で

ビルボードのR&Bチャートに

34週も留まるヒットを飛ばした。





☆Jimmy Witherspoon
- Ain't Nobody's Business







1959年にモンタレー・ジャズ・フェスティバルに

出演しジャズ界からも注目を浴びた。






(モンタレー・ジャズ・フェスティバル)






1997年にはアルバム

『ライヴ・アット・ザ・ミント』で

グラミー賞にノミネートされるも

同年9月に死去。


"スプーン"の愛称で親しまれた。





(ライヴ・アット・ザ・ミント)







< ジェイ・マクシャンによって発掘 >




商船の彼の任務が終わる頃に

ウィザースプーンは彼の母親と

サンフランシスコへ引っ越した。






製鉄所のボイラーとしての

日雇い職でウィザースプーンは



週末にカリフォリニア州

バエホー近くのThe Waterfrontと

呼ばれるクラブで歌った。





ある夜クラブで歌っていた時、

バンドリーダーの

Jay McShann

(彼の)歌を聴かれて、




ウィザースプーンは

ビッグ・ブレイクを得たのだった。






マクシャンは、時代で最もすばらしい

ブルース・バンドの1つを導いた。



偉大なCount Basieに対抗して、





(Count Basie)






そして若きCharlie Parker の

スタート・ポイントになったのだ。







(Charlie Parker )







アルト・サックス奏者(パーカー)は、

ビーバップの言葉(リズム)で

案内役を手伝うために

ニューヨークへ出かけていった。






マクシャンと

彼が最初に雇った歌手の

Walter Brown。





(Walter Brown)






(ブラウンは彼らのヒット曲

"Confessin' the Blues" と

"Hootie's Blues,"

と共作した。)





マクシャンはウィザスプーンを

加入させるために

ブラウンを降ろしたのだった。







・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



1曲の中で少なくとも

ウィザスプーンはブラウンのスタイルを

模倣する様説得された。



「ジェイ・マクシャンは言ったんだ。」




ウィザスプーンは

(Arnold )Shawに呼びかけた。





「スプーン。彼らは

"Confessin the Blues"の私を知っている。


そうだ、ブラウンの曲で歌ってくれ。




☆Jimmy Witherspoon with Jay McShann
- Confessin' the blues ♪





だが、残りの曲は君のやり方にまかせるよ。」



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・







ウィザースプーンは1945年に

Jay McShannのバンドとともに

彼の最初の録音を行った。


その頃、同じバンドには

若きチャーリー・パーカーもいた。



このバンドで、

ビッグ・ジョー・ターナー





(ビック・ジョー・ターナー)






Tボーン・ウォーカー

との共演を経験している。






(Tボーン・ウォーカー)









< Ain't Nobody's Business >



結局、ウィザースプーンは

彼のやり方を通した。





やがて

Supremelabelの

ソリストとしての録音のために

2,3年後マクシャンのバンドを

去っていった。






1949年、2、3の録音のあと、


1922年にブルーズ・シンガーの

Bessie Smithの



オリジナル・レコーディング曲

"Ain't Nobody's Business,"





(Bessie Smith-Ain't Nobody's Business )




スプーン・ヴァージョンが録音された。




☆Jimmy Witherspoon
- Ain't Nobody's Business






スプーン・ヴァージョンは

彼の代表曲になり、古いバンドから

マクシャンやその他が

フュチャーすることになった。




R&BチャートNo1入りして、

そして34ヶ月間チャートインした。



これはどんな以前のR&B曲以上に

長期のチャート・インだった。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



1949年、マクシャン・バンドによる

彼自身の管轄下のレコーディング。


彼の最初のヒット曲

"Ain't Nobody's Business,"は

彼の代表曲になった。




☆Jimmy Witherspoon sings Bessie Smith





ビルボードのR&Bチャートで

第1位のヒットとなり、



その後34週もランクインされ、

当時最大のヒット曲として

知られるようになった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





ウィザースプーンの次のリリースは

"In the Evening When the Sun Goes Down,"

No5を達成した。





☆Jimmy Witherspoon
- In The Evening (Alternate Take)







この後、スプーンはModern, Federal,

そして 伝説的な Chess labelなどの

色々なレーベルでいくつかの

アルバムをリリ-スした。








1950年に、

彼は彼のモノとハッキリと分かる

もう2つのヒット曲を得た。



"No Rollin' Blues",



"Big Fine Girl"
 

同じく"Failing By Degrees"






("Failing By Degrees" )






そして "New Orleans Woman" は





("New Orleans Woman")






Modern Records labelで

Herman Washington

そして Don Hillが所属している

Gene Gilbeaux Orchestraで録音された。






これらは Gene Normanの後援で、

カリフォルニア州パサディナでの




"Just Jazz" コンサートで

1949年5月10日のライブ・パフォーマンス

からの録音だった。





(May 10 1949 Just Jazz concert
 in Pasadena, California)







その他のクラッシク・ウイザースプーンは

"Times Gettin' Tougher Than Tough"だった。







ウィザースプーンのブルーズのスタイルは

 "ブルーズ・シャウター"、

それは、1950年代中頃に流行遅れになった。



                           (ウィキペディアより抜粋)


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