◆生涯現役はその生(い)き様(ざま)で語る♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。



<<帰ってきた太郎は?>>



浦島太郎のお話しをご存知でしょうか?






「そのお話しなら、

おそらく日本人の方でしたら

誰もが幼少期の頃に・・・。」




「何らかの機会に

耳にしたコトがあるのでは

ないでしょうか。」





歌にもなっていましてネ!




助けた亀に連れられて

住み慣れた故郷を後にして、



竜宮城で時の経つのも忘れて

過ごしていたトコロ、





イザ!帰ってみると

そこは、

もう住み慣れた

故郷ではなくなっていた。






(イザ!帰ってみるとそこは、
もう住み慣れた故郷ではなくなっていた。)






その様なお話しだったか

と思いましたが、





「そうですね。」





彼もその様な経験をしてコトが

ありました。





「彼は何処へ行かれていたのですか?」






時は第二次世界大戦真っ只中です。



彼は軍へ徴兵されていったのです。






「それは時代の流れとはいえ、

彼にとっては苦痛だった

のではないでしょうか?」







そうですね。


当時彼の編成した

ビッグバンドのツアー大成功して、


有名ダンスホールの専属契約の

とっていたのですから、



まさに売れっ子。

上り調子だったのです。






「OH !」






ですから、


彼は最後まで従軍する

気はなかったようですが、


FBIから目の前に

書類を突きつけられたそうです。





(FBIから目の前に
書類を突きつけられたそうです。)






「それは・・・。

従うしかナイでしょうネ!」







そうですね。

マネージャーにバンドのコトを

宜しく頼んだ様なのですが・・・。






「ダメだったのですネ!」






そうです。


その時のコトを彼はこう言っています。






「私たちはその夜

その全てを失ったんだ。」





なんとも失望感、喪失感漂う

ト~ンですネ!





「それで、除隊してからは

如何だったのでしょうか?」






そうですね。


バンドを組んではみたのですが、

時代が変わってしまっていて、






「ハイ!」







ビッグ・バンドの様な

大所帯のバンドの活躍できる場所が

なくなっていたのでした。






「それはビッグ・バンドのツアーで

慣らした彼にとっては、



今まであると思っていた

条件や環境が

ガラリと変わってしまった。



その新たな環境に

再び身を置くコトになった、



まさに

”帰ってきた浦島太郎状態”

だったワケですネ!」






<<ジェイ・マクシャン続く!>>



今回ご紹介するジャズ・マンは

前回に引き続きジェイ・マクシャンです。





(今回ご紹介するジャズ・マンは
前回に引き続きジェイ・マクシャンです。







浦島太郎は戻った環境に

ある意味絶望して

玉手箱を開けてしまいますが・・・。







「彼の場合はどうだったのですか?」








場所をニューヨークから

ロスアンゼルスに移して



それから今回は

オーケストラではなく、



もっと小回りの利く

ミニコンボを編成したのです。







「時代の変化に絶望するのではなく、

自らが変化していったのですネ!」






そうです。

メンバーに若きブルーズ・シャウター

を起用するなどファンを魅了していったのです。






「いいですね。」





それから1960年代後半まで

おとなしい活動をしていったのですが、






それから再発見されて、

何でも1966年(50歳)の録音で

初めて歌ったとか・・・。





そして

すぐに人気のピアニスト&ヴォーカリスト

になったそうです。






「いや~っ!素晴らしいデス。」




「長年の音楽人生が、この頃になっても

さらに新たな可能性を開花させたのですネ!」







彼はそれからも

世界中の音楽祭での演奏や、



アメリカとヨーロッパ間の

定期的にツアーも行ったそうです。






(彼はそれからも世界中の音楽祭での演奏や、
アメリカとヨーロッパ間の定期的にツアーも行ったそうです。)







「いいですね。」



「お年を召して、

内(ウチ)に引きこもるのではなくて、




逆にコチラから出向いて行って!





さらに国境を超えて!



多くの方たちを

啓発していったのですネ!」









ちなみに彼の最後の録音は

85歳でした。





「まさに生涯現役ですね。」





「彼はその生き様を通して

多くの皆さんに実証してみせた、



素晴らしいミュージシャンだった

のではないでしょうか。」






☆Big Joe Turner with Jay McShann... The Blues! ♪


☆Jay McShann Trio - Doo Wah-Doo ♪


☆Jay McShann - Smoke gets in your eyes ♪


☆Jay McShann "I'll Catch The Sun" (Rod Mckuen) 2001 Live in Toronto ♪







☆ジェイ・マクシャン Jay McShann


本名:ジェームス・コロンブス・マクシャン


 ( 1916年1月12日- 2006年12月7日)



ジャンプ・ブルーズ

メインストリーム・ジャズ 、



そしてスウィングバンドリーダー、

ピアニストとシンガー。






< 略 歴 >



<ニューヨークにて>





ビッグバンドはツアーは大成功だった。

マクシャンと彼のバンドは1942年2月に

ニューヨークに到着して、



結局、その最初の夜に、

Lucky Millinderの導きで

伝説的のサヴォイ・ボールルームで

専属バンドになった。





(Lucky Millinder)





Millinder'sは来店してきた

すべてのヒトを打ち負かす様な

強力なバンドだった。





彼は私たちが演奏した曲のいくつかを

楽譜に出来るかを知りたかった。




「私たちは沢山の譜面の

曲(音楽)は持っていないんだ。」



私は言った。



「私たちはちょうど

それぞれの頭の中に

それら(曲)をまとめているんだよ。」








絶賛の評価にもかかわらず、

合衆国の第二次世界大戦への参戦は

国家高揚のため、



どの様な新しいオーケストラでも

その活動が困難になっていた。







そのころ、

パーカーの複数の中毒(麻薬とアルコール)に

よる絡(から)みは、

ますます常軌を逸した行動につながっていった。






さらに悪いことには、1942年の秋に、

Earl Hinesは彼自身のアンサンブルに加わるために、

パーカーを含むマクシャンのバンドの

5人のメンバーを誘った。






最後のセッションのひとつが

サクソホンの巨匠(パーカー)なしで

1943年12月に録音された。





(チャリー・バーカー)







バンドのメンバーは戦争活動に

加わるのために

着実に外されていった。






1944年マクシャンが徴兵に

難色を示していた

その素振りをよく見せた。




「私たちにはその夜、

素晴らしい観客がいた。

およそ6~7000人だ。




FBIの漢(おとこ)たちは

11:30にやってきて、

私に書類を送達した。



2通の読まれた手紙がそこにあった。



私宛の2通だ。




そして私は彼らがどんな指示を

受けているのか尋ねた。



彼は言った。

”すぐに誘導する。そしてそれは我々が

たった今レベンワースに向かうことを意味する。”




私はマネージャーにバンドの予約を

引き受けるよう頼んだ。



だが、私たちはその夜

その全てを失ったんだ。」







そして1944年5月に、マクシャン自身は

(国に)仕えるために、

グループは効果的に解散した。







1944年後半に彼が軍を除隊した後、

マクシャンはグループを再編成して

ニューヨークの周辺で演奏した。


しかし環境は彼が不在にしている間に

変わってしまっていた。








マクシャンはハディックスに語った、



「私が軍隊にいる少しの間に

すべてが変わってしまった。


多くのダンスホールは

ボーリング場に変えられていて

それは全く異なるものだった。」








ビッグバンドの時代は既に終焉を迎えており、

マクシャンはニューヨークを離れて、

ロスアンジェルスに向かう決断をした。








<より小さなグループで>




第二次世界大戦の後、マクシャンは

今後数年間のためにコンボを率いた。




「私がカリフォルニアに着く頃には」と、

彼はハディックスに話した。



「私はビッグバンドがあまりにも高価だったので、

それは止めようと決めていた。

そこで私は小さなブルーズ・コンボを編成した。」





ロサンゼルスでマクシャンは

彼との提携で最も有名になった。




その彼とは、

若いブルーズ・シャウター、

Jimmy Witherspoonの

魅力とするトコロだった。





(Jimmy Witherspoon)





そして、一緒に、彼らはアラジンと

マーキュリー・レーベル用に

いくつか面をカットした。









1945年、ウィザースプーンはマクシャンと

録音を始めた。 McShann's bandの顔として、

 "Ain't Nobody's Business"で1949年に

ヒットを飛ばした。




沢山の曲を書くだけでなく、ウィザースプーンは

McShann's bandと共に録音を続けた。

またBen Websterを出演させたりもした。






(Ben Webster)






1950年、マクシャンはカンザスシティーに戻って、

音楽学校で勉強した.



2、3年彼はゴミ運搬ビジネスと

リムジン・サービスを所有した。




彼は家族を引き上げるコトで落ち着いたが、

また、トリオと、そして、小さなグループと

ともに定期的にツアーをした。





1955年、マクシャンはPriscilla Bowmanを

ヴォーカルに起用、"Hands Off"を

モダン・リズム・&ブルーズでヒットさせた。






(Priscilla Bowman





マクシャンは1960年代後半になるまでの

20年間は無名状態だった。

ほとんど録音をせず、

主にカンザスシティー(中西部)で演奏した。








1969年に、再発見された。

マクシャン(1966年の録音で初めて歌った)

はすぐに人気のピアニスト/ヴォーカリスト

になった。




そして、しばしばバイオリン奏者

Claude Williamsと活動した。








60年代後半には、彼はDuke Ellingtonの

アドバイスを受けて、ヨーロッパで演奏を始めた。






(Duke Ellington)





そこで、彼は熱心な観衆を見つけた。



そして、次の30年の間、世界中で音楽祭で

演奏することに加えて、

マクシャンはアメリカ合衆国と

ヨーロッパ間を定期的にツアーを行った。





☆Jay McShann in the 1970s, Part 1 of 2 ♪







1971年、マクシャンは、

カンザスシティー栄誉の殿堂に選出された。





1978年に、彼はドキュメンタリー

 Hootie’s Bluesの主題になった。






(Hootie’s Blues)






1979年、彼はKansas City jazzの

The Last of the Blue Devilsの

ドキュメンタリーにも顕著に出演した。






(The Last of the Blue Devils)






1979年3月3日は、ミズーリの知事からの

宣言により"ジェイ・マクシャン・ ディ"と宣言された。









さて、80年代は、

マクシャンはまだ時折活躍していた。

特にカンザスシティー地域とトロント。





ジェイ・マクシャンは年間を通して録音をした。

オニキス(1940ラジオ編曲)、デッカー、

キャピトル、アラジン、マーキュリー、




ブラック・ライオン、EmArcy、ヴィー・ジェイ、

ブラック&ブルー、マスター・ジャズ、



サックビル、ソネット、ストーリービル、

アトランティック、スゥング・タイム、

そしてとりわけミュージック・マスターのために。






彼は不可欠なピアニストで、

古典的なスタイルを持った

効果的なブルーズ・ヴォーカリストだった。





☆Jay Mcshann _ Once upon a time [HQ audio] ♪








彼は録音し続けて、1990年代を通してツアーをした。





☆Jay McShann 1990 ♪




オンタリオ州で61年のレコーディング・キャリア

のあと、

2001年2月にトロントで最後の録音 "Hootie Blues" が

録音され、85歳でも活躍できる姿をみせた。



それは2006年にStony Plainよりリリースされた。







☆Jay McShann - Hootie Blues (with Clint Eastwood) ♪









マクシャンは2006年12月7日に

カンザスシティーの聖ルークの病院で亡くなった。

90歳だった。





ジェイ・マクシャンは30年以上前に

彼の連れ添いに先立たれていた。


Thelma Adams(Marianne McShannとして知られている)

そして3人の娘たち、 Linda McShann Gerber,

 Jayne McShann LewisそれからPam McShann。







<影響>


彼らの初期のアルバムFive by Five(UK EP版)、

そして12x5 (US LP版)(両方とも1964年)



The Rolling Stonesが"Confessin' the Blues"を

カヴァーした、その曲は1940年代に

マクシャンがWalter Brownと共著した曲だった。





(The Rolling Stones"Confessin' the Blues"






犯罪フィクション・ライターのElmore Leonardは

2005年の小説 The Hot Kidの登場人物として

マクシャンを起用した。





(「The Hot Kid」:Elmore Leonard






<受賞>


・ブルーズ・ホール殿堂入り



・リズム&ブルーズ財団のパイオニア賞



・1982年フィラデルフィアの

 アフリカ系アメリカ人博物館より

 ジャズ・マスター賞



・カンザスシティー・ジャズ遺産賞



・ジャズ教育者協会よりジャズ時代パイオニア賞




・1989年、オクラホマ・ジャズ・ホール殿堂入り。




・1991年グラミー賞の

-最優秀ラージ・ジャズ・アンサンブル演奏部門。

”Paris All-Star Blues(A Tribute to Charlie Parker)”


がノミネート。






(Paris All-Star Blues(A Tribute to Charlie Parker))







・2003年グラミー賞の

ベスト・トラディショナル・ブルーズ・アルバム部門。

”Goin' to Kansas City”がノミネート。






(”Goin' to Kansas City”)


                 (ウィキペディアより抜粋)


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