◆クリーンヘッドはチェリー・レッドに染まる♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<< チェリー・レッド>>





CHERRY RED チェリーレッド

(Pete Johnson / Big Joe Turner)

ピート・ジョンソン/ビッグジョー・ターナー




Run here  pretty mama,

さぁ!ここに座ってママ。


set down on your daddy's knee

パパの膝の上に乗って、





I want to tell ev'rybody,

みんなに伝えたいんだ、


how you've been sending me

アナタがどんな風に暮らしてきたか。




Mama if that's your secret,

ママそれが秘密なら、


you better keep it to yourself

言わなくていいよ。








OH! If you tell me ,

アナタが言うのなら、


I might tell somebody else

僕は誰かに言ってしまうからネ!





She gose be she be regret

(この歌詞聞き取り不明)

彼女は後悔するコトになる。


and she’s fill turne from some grand

(この歌詞聞き取り不明)

そして彼女は過去からの変化を感じている。




If time  she kiss me

彼女がキスをするなら


On my love gone someone down

愛はどこかへ行ってしまう。




take me pretty mama,

連れて行っておくれよ可愛いママ、


Shock mean your big friends dead

ショックなのはアナタの大切な友達のが亡くなること





lucky your mama

ラッキーなママ、


Tel my face turns cherry red

僕の顔がチェリーレッドに変わるまで。


cherry red

チェリーレッドに・・・。


                (訳詞:宮下秀一)







「最初はご主人と奥さまとの

お話しかと思ったのですが、」




「これは明らかに男女関係を歌ってますネ!」







そうですね。





「女性の方はあまり男性の方には

関心を示していない様です。」


「おそらく他のコトで

頭がいっぱいなのかもしれません。」







フムフム。






「かと言って男性の方も、

これは・・・。」



「おそらくですが・・・。」





ハイ。






「ココロが虚(うつ)ろな女性との

その人間関係に、

彼自身を持て余してる様です。」






(ココロが虚(うつ)ろな女性との
その人間関係に、彼自身を持て余してる様です。)






ホーッ。





「ですから。

カタチだけのキス(接吻)も

よりお互いの距離を遠ざけてしまいます。」







ふむふむ。






「彼女が・・・。

おそらく彼よりも親しい友達ですが、」






ハイ。






「その方たちが

彼女から離れていってしまうコト」







はい。





「それは彼女にとっては

とてもショッキングなコトですが。」






ハイ。






「そのコトを引き合いに出しても・・・。」






「それでも!・・・。」






「それこそ顔がチェリーレッド色に

変わるホドに

キ・ツ・ク・抱擁(ほうよう)するコトで、

互いの不安感を抑えようとしている。」





(キ・ツ・ク・抱擁(ほうよう)するコトで、
互いの不安感を抑えようとしている。)







「・・・と、そう思われます。」








なるほど。






「やるせない感じの曲ですね。」






そうですね。








<<エディ・クリーンヘッド・ビンソン登場!>>




今回ご紹介するブルーズ・マンは

エディ・クリーンヘッド・ビンソンです。




(今回ご紹介するブルーズ・マンは
エディ・クリーンヘッド・ビンソンです。





この彼の歌った

”チェリーレッド”と言う曲ですが、




当時のハーレム・ヒット・パレードで

No2を記録しています。





「O H ! 」






ちなみにこの歌詞は

ビッグジョー・ターナーによるモノですが、





(ビッグジョー・ターナー)






元の歌詞とは違っていまして、




「ハイ」




おそらくレコーディングの度に!





「ハイ」





もっと言いますとライブの度に!






「ハイ!」





歌詞の変更はその時のジンガーの・・・。


いってみれば気分によって

あるのではないかと思われます。







   
「それは日本では、

まず考えられないコトかと

思われますが・・・。」








そうでね。





ただライブ中にシンガーが

歌詞を忘れて、


違う歌詞を歌ったコトは

よく耳にしたコトはありますが・・・。







「そうなのですか?」







ハイ。(^^)




でも、ライブにおいては

シンガーの即興性を大切にする

傾向にあるかとは思いますので、





そこで歌詞に縛られるのは

返ってその自由性を尊重していない様な


印象も受けますネ!







「なるほど。

そう言われてみれば、そうですね。」








でも、ライブで堂々と歌詞カードを

見ながら歌うと言うのも・・・。



どうでしょうか?







「それはファンの方を

少し軽くみているのでは・・・。」









(「それはファンの方を
少し軽くみているのでは・・・。」)







そうですね。


やはり、それはシンガーの方の

ファンの皆さんに対する姿勢次第では

ないでしょうか?







「つまるトコロはそうですね。」








今回ご紹介するブルーズ・マンは


シャウター(叫び声)を特徴としています。





「ホウ。」







メロディーラインを

順調に刻んでいると思いきや。


急にシャクリあげる様な

トーンになります。






「確かにそうですネ」




「この変則的な歌い方は

ちょっとやそっとでは

マネ出来ないのではないでしょうか。」







そうですね。



この個性的な歌い方と

辛辣な歌詞によって、


やがて彼はビッグバンドの

看板シンガーになります。







「それはスゴイですネ!」







ハイ。


そして短い徴兵の期間を終えて

彼自身のビッグ・バンドを編成します。







「OH! それはなかなかのやり手ですね。」








そうですね。






除隊後に一旦、既存のバンドに戻りは

戻りはしたものの・・・。






「ハイ。」






彼にはもっとやりたいコトが

あったそうなのです。






「なるほど。」







「それが自身のバンドを創るコト

だったワケですね。」






そうです。





既存のバンドに在籍していては

それは、それで良かったのか

しれませんが・・・。





でも・・・。





「ハイ。」





彼の中の何かが

それを

許さなかったのかもしれません。






(彼の中の何かが
それを許さなかったのかもしれません。)







「それはいったいどう言う心境

だったのでしょうか?」







それは彼自身の向上心かも・・・。



それとも野心と言ったモノかもしれません。







「まるで心の奥底でメラメラと

炎が燃えている様ですネ!」







そうですね。


そして彼は実際に

行動していったのです。







「まるでサナギから蝶になる様に

既存のカラを自らの意志と行動で

破っていったのですネ!」







(「まるでサナギから蝶になる様に
既存のカラを自らの意志と行動で
破っていったのですネ!」)







そうですね。





ですが、その約2年後には

バンドは解散するコトになります。







「それはまたどうして?」







ビッグ・バンドが時代に

合わなくなったのです。






「なるほど。

確かに大所帯ですから。

人件費、設備など大変だったでしょうし、」






そうですね。





「ファンの方たち音楽の嗜好の変化。

ホールの経営者たちのコトもありますからネ」








そうですね。




時は1947年。



彼もその自身のスタイルの変化を

時代の流れによって

求められる様になってきたのでした。





☆Eddie "Mr. Cleanhead" Vinson- Just A Dream ♪


☆Cootie Williams and his Orchestra 1943
(Eddie Cleanhead Vinson) ♪


☆Eddie "Cleanhead" Vinson - Oil Man Blues ♪


☆Kidney Stew - Cleanhead with Cannonball ♪











☆エディ・クリーンヘッド・ビンソン
EDDIE CLEANHEAD VINSON



本名:エディ・ビンソン



 (1917年12月18日- 1988年7月2日)


アメリカン・ジャンプ・ブルーズ、

ビーバップとR&Bアルト・サックス奏者、

そしてブルーズ・シャウター。




彼は整毛剤に含まれた灰汁によって

偶然にも毛髪を傷めてしまった。








その事件の後にクリーンヘッドと

呼ばれるようになった。






ビンソンはテキサス州ヒューストンで生まれた。



彼の祖父は、バイオリン奏者で、


父:ピアノ・サム・ビンソン

そして母:アルネーラ・セッション

共にピアニストだった。



子供の時、エディーは教会聖歌隊で歌っていた。






ヒューストンで

ハイスクールに通っている間

ビンソンは最初にホーンを選んだ。







まだヒューストンでジャック・イェーツ高校に通う間、

彼は夏にチェスター・ブーンの

テリトリー・バンド(地元のダンス・バンド)で



ツアーに招待されたほど

印象的なサクソホーンの才能を高めたのだった。








1935年に高校を卒業した後に、

彼は Boone's bandのフルタイム・メンバーになった。




ブーン・バンドの前のメンバーは

トランペット奏者と地元ヒューストンの仲間だった。





Milt Larkinは1936年に彼自身のバンドをつくり




(Milt Larkin)





ブーン・バンドからテノールサックスの

Arnett Cobbを採用した。





(Arnett Cobb)





コーヴはビンソンをラーキンに推薦した。

そして、1937年までに、



ビンソンはすぐにテキサスで

最も熱いテリトリー(領域)・バンドの

メンバーになった。





彼はMilton Larkin's orchestraの

驚くべきホーン部門のメンバーだった。






(Milton Larkin's orchestra)






悲しいことにラーキン一行は

録音されないままだった。





だが、それはすぐに

仲間のテリトリー・バンドだけではなく


全国の名前のあるバンドに対してもまた

バトルによって

恐るべき評判を獲得したのだった。






そして、ビンソンはグループと

南部と中西部のツアーに

次の4年間を過ごした。



彼は、ギタリストT-Bone Walker






(T-Bone Walke)





そしてArnett Cobbなど

バンドの2人の他の有名なメンバーによって、

強い影響を受けた。





いろいろな時期に、バンドの他のメンバーが

Cedric HaywoodやWild Bill Davisがいる間に





(Cedric Haywood)






(Wild Bill Davis)






彼は Arnett Cobb, Illinois Jacque





(Illinois Jacque)






そしてTom Archiaの隣にすわった。





(Tom Archia)





ラーキンとのツアーの間、

ビンソンはBig Bill Broonzy

にも紹介された。




(Big Bill Broonzy)






1941年にラーキンの仕事を終えたあとに

ビンソンはブルーズマンのBig Bill Broonzy

とのツアーの間に2、3のヴォーカル

のコツをみつけた。




(なお、別の情報によると

Big Bill Broonzyが

ビンソンに "shout the blues."

(ブルーズ・シャウトの方法)を

教えたとされている。)






この時に、ビンソンの声は

バラードに限り奮闘していた。




1941年後半、即席の舞台裏の

セッションでブルーズを歌っているトキ、


彼は元Duke Ellington band の





(Duke Ellington)





トランペット奏者

Cootie Williamsに

聞かれていたのだった。





(Cootie Williams)






ウィリアムズは、

彼がニューヨークに戻って

編成された新しいバンドの為に


Arnett Cobbと契約を交わすつもりで、

ヒューストンの南部に来ていた。






コーブは席を動くこと拒否したのだが、



エディ・ビンソンは

3回目の説得のあと

The Cootie Williams Orchestraの

スターになるために、



ニューヨーク市への長い鉄道旅行を

することになった。






(The Cootie Williams Orchestra)






1942年から1945年まで

 Cootie Williams Orchestraに加わった。





そして "Cherry Red"

のような曲を録音した。



1942年の 4月にそこで Okeh Recordsへの初吹き込み

「When My Baby Left Me 」

Cootie Williams Orchestraと)をした。






1944年に、バンドはHit/Majesticのために

いくつかのセッションを録音した。




ウィリアムズのビンソンの独特な声を

フューチャーしたをヒットの録音

"Cherry Red,"

( ハーレム・ヒット・パレードNo2)



"Is You Is,"



 "Things Ain't What They Used To Be,"




そして"Somebody's Got To Go."

(ハーレム・ヒット・パレードNo1達成)




ビンソンはいくつかの

ブルーズを歌いながら、

彼は悪評を勝ち取った。






レコーディングに加えて、ビンソンも

次の3年の間ウィリアムズのバンドとともに

ツアーをした。





半ば1945年にクーティ・ウィリアムズのバンドは

キャピトルレコードと契約した。



その年の前半には、ビンソンは徴兵された。


彼のアルト・サックス椅子はCharlie Parker

によって一時的に満たされた。





(Charlie Parker)





ビンソンの喘息状態(独特なゼーゼーいう

音の原因で、彼の歌声に引っかかる)


プラス第三帝国の崩壊は、彼の不在が短い期間

であることを意味した。







彼は、“When My Baby Left Me”


そして“Juice Head Baby”を歌った



彼は7月のレコーディング・セッションのために、

バンドとともに戻ってきた。



これらは、クーティ・ウィリアムスのバンドの

ための彼の最後の録音だった。






主要なスター(1944年の最高のR&B

バンド・ヴォーカリスト)としての名声を確立して、

ビンソンは一人で進む時期がきているのを感じた。



そして、年が明ける前に、彼はマーキュリーで

彼自身のビッグバンドを代表していた。








ビンソンは1945年に彼自身の

大きなバンドを編成して次の数年の間

Capitol, Mercury, King,そして

その他のレーベルで広範囲に録音した。



彼の最も有名なカットのいくつかは、

彼自身の16人編成のバンドで録音した。







“Mr Cleanhead Steps Out”は

素晴らしいインストゥルメンタルだ。



それは15人の男性によるスイングで

“Juice Head Baby”

のリメイクのひとつと一緒に支持された。





セッションから出される最初のシングルは、

何曲かの素晴らしいブルーズ・シャウトの

“I’ve Been So Good”は、




人気のあるスイング・インストゥルメンタルの

“It’s A Groovy Affair”と共に支持された。







次のセッションは、

当初クーティ・ウィリアムスと録音された

ビンソンのオリジナル・ナンバーの

更なるリメイクが監修された。


“Cherry Red Blues”



そして“Somebody’s Got To Go”








1945年の終わるまでに、

ビッグバンドのための3回目の

レコーディング・セッションがあった。




しかし、、バンドは1946年10月に

再びスタジオのドアを叩く前に

10ヶ月のギャップがあった。




そして “Cleanhead Blues”

 / “When A Woman Loves Her Juice”が

単独で録音された。







1947年はビッグ・バンドが

リアルにトラブルにヒットした年として

しばし引用される。






その年の初めに最も有名な

グループの多くは、バラバラになった。

Benny Carter, Les Brown, Benny Goodman,





(Benny Carter)





(Les Brown)






(Benny Goodman)






Woody Herman, Jack Teagarden, Tommy Dorsey





(Woody Herman)






(Jack Teagarden




(Tommy Dorsey)





そして Harry Jamesらは





(Harry James)





すべての団体を解散した。

しかし何人かはその後再編していった。



           (ウィキペディアより抜粋)


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