◆"罪の首都(カンザスシティー)”でココロ時めく♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。



<<水を得た魚のように・・・。>>





水を得た魚のように・・・。




と言う表現があるかと

思いますが・・・。






「今まで、それは大きくジャンプする

チャンスでしょうか?



その力(ちから)の蓄積の様なモノが

あって・・・。






その活躍の場所が与えられた。




もしくは、自(みずか)らで

掴(つか)んだ。



その様な感じでしょうか?」








はい。彼も住む場所を変えて、




その様な環境に身を置いて


心身共に実感したそうです。








「いいですネ!」




「まさに上り調子ですネ!」







はい。



当時のカンザスシティーは

それ程健全とは言える

状況ではなかった様です。






(当時のカンザスシティーはそれ程健全とは言える
状況ではなかった様です。)






「・・・と、言いますと?」







首長が自分が都合の良い組織を作り、

運営していたそうなのですが、






「ハイ」






その首長が脱税で捕まって、




「OH !」





投獄されながらも、

その組織に指示を送っていたそうです。





「何とまぁ。凄い状態だったのですね。」





はい。



街の状態ですが、

禁酒法の時代にもかかわらず、



お酒の広告や、バーなどは

一晩じゅう開いていて、



ギャンブル、ギャング、

売春、麻薬でも知られていたそうです。






「一般的な市民だったら

近寄りたくなナイ様なトコロですね。」





確かにそうですね。




でも、これだけ人が集まると言うコトは

お金の流れもスムースである

と言うコトです。




(でも、これだけ人が集まると言うコトは、
お金の流れもスムースであると言うコトです。)






「なるほど。」






そのため、

当時、不況下にもかかわらず

カンザスシティーは

かなり繁栄していたそうです。





ですから、

彼も音楽活動において

活発に活動できていた様ですネ!





「バーが一晩中開いていたのですネ!」





そうです。


と言うコトは?





「一晩中、音楽をライブで

実践して、スキル・アップでしたワケですネ!」







そうです。


そのコトについて、

彼はこう言っています。







”私がジョイントで演奏して

通したあとは、

もう朝の5時か6時くらいになっていた。”




”そして歩き回って、

皆の話しを聞いたんだ。




それはとてもエキサイティングで、

眠りたくなかったんだよ。”








(”それはとてもエキサイティングで、
眠りたくなかったんだよ。”)







「イヤ~ッ。素晴らしいです。」








「寝るのも惜しいくらいに、

ドンドン活動の幅が拡がっていって


様々なコトから貪欲に吸収しにいってます。


その彼のワクワク感が伝わってきますね。」






「その時に彼はまさに

水を得た魚のよう・・・

だったのでしょうネ!」




「ウ~ン。わかります。^^」








<<ジェイ・マクシャン続く!>>


今回ご紹介するジャズ・マンは

前回に引き続きジェイ・マクシャンです。





(今回ご紹介するジャズ・マンは
前回に引き続きジェイ・マクシャンです。






その様な勢いで彼のコトは

地元の音楽の音楽のコミュニティーでも

認められる様になって、



レギュラーのギグなども入って

活動をよりしっかりとしたモノに

してゆきます。





「なるほど。」






それから彼はある人物との

出会いにより更にそのキャリアを

アップさせてゆきます。





「その人物とはどなたでしょうか?」




*チャーリー・パーカーです。







*チャーリー・パーカー


(1920年8月29日 - 1955年3月12日)

ジャズのアルトサックス奏者。


1940年代初頭から、モダン・ジャズの原型

となるいわゆるビバップスタイルの創成に、

携わり、これにより

「モダン・ジャズ(ビ・バップ)の父」

とも言われる。








彼はパーカーのプレイを観て、

バンドの編成する。


その啓示を得たそうです。





「それは、何とも運命的な

出会いを感じますネ!」






はい。


当時、黒人のバントは、

クラブでですね・・・。




「ハイ」




そこでの演奏は前例が

なかったそうなのですが、



彼らのバンドは高級クラブでプレイして、

お集まりになった上流階級の皆さんを

満足させたそうです。






「いいですね。」




「音楽を通して人種の壁が

次第に解かれてゆく様が

目に見えるようです。」








1940年初期には

彼の率いるフル・オーケストラが

レコーディングにも挑戦します。





「OH !」





実は、そこで彼は現代的な演奏に

チャレンジしたかったのですが、





「ハイ!」





レコード会社の意向もあって

オーケストラはブルーズの

演奏が中心だったそうです。






「OH~。」


「折角のファースト・アルバムですのに

自由に選曲出来ないなんて、

それは残念でしたね。」





そうですね。




でも、

それが15万枚と言う

非常に好調な売れ行きを示したのです。





(でも、それが15万枚と言う
非常に好調な売れ行きを示したのです。)








「それは、嬉しい悲鳴なのでしょうか?」






少なくともレコード会社側は

そうかもしれませんネ!






ですが、自己の表現を第一とする

アーティストの立場からしますと

その自由性を抑えられたワケですから、






それは、彼としては

釈然としなかった

のではないでしょうか。







「そうでしょうネ!」







そして

彼はブルーズ・アンサンブルの

リーダーとしての

キャリアを確立してゆくのです。







☆CHEROKEE Jay McShann featuring Charlie Parker♪


☆78rpm: Hootie Blues - Jay McShann and his Orchestra,

1941 - Decca 8559 (Bird's 1st)♪



☆Jay McShann & His Orchestra - Jump The Blues ♪


☆Charlie Parker Early Recordings w/

Jay McShann Orchestra 1940 ~ Body And Soul♪







☆ジェイ・マクシャン Jay McShann


本名:ジェームス・コロンブス・マクシャン


 ( 1916年1月12日- 2006年12月7日)



ジャンプ・ブルーズ

メインストリーム・ジャズ 、



そしてスウィングバンドリーダー、

ピアニストとシンガー。





ジェイ・マクシャンは、

ジャズの本当の生きた伝説の1つだ。


彼は1930年代にピアノ経歴を始めて、

(1998年当時)まだ好調だ。




Peter Silvesterによる神のような左手で、

彼は第2の世代と認められます。



彼はAlbert Ammons,





(Albert Ammons)






 Pete Johnson,




 (Pete Johnson)





そしてMeade Lux Lewis




(Meade Lux Lewis)





と一緒に、


第二世代ブギウギプレイヤー

として認められている。





ジェイ "フーティー"マクシャンは1916年、

オクラホマ州マスコギーの周辺で生まれた。




彼は記憶するため

そして彼の教会オルガニストの妹のために

耳を傾けピアノを独学した。




1930年代には、彼はいくつかの

バンドとともにツアーをした。





1936(7?)年、

ジェイはミズーリ州カンザスシティに移った。

そこで彼のキャリアはリアルに

飛び立ったのだった。

 



彼の仲間のピアニストと

バンドリーダーのCount Basie、

シンガーのジョー・ターナー

そして他を加えて、





(Count Basie)






(ジョー・ターナー)




彼はカンザスシティー・サウンンド

の確立に手を貸した。





カンザスシティー・サウンンド。






それは、

ブルーズの中に根付いたジャズのブランド、

リフによってドライブされ、

そしてパワフルさが際立つが

落ち着いたしたリズムカルな拍子のサウンド。








<略歴>



<オーケストラ>



1930年代彼はミズーリー州

カンザスシティーへ上陸した。

それ以前に中西部で演奏した。






カンザスシティー。

*Tom Prendergastの不正な政策が

我が物顔に振舞っていた街。




(Tom Prendergast)





*Tom Prendergastとは?


当時カンザスシティーをトムペンダガスト

にちなんで名付けられペンダガストマシン

として知られている腐敗した

組織によって支配した。



彼は1939年に脱税のために投獄されたまで、

ペンダガストタイトなコントロールを維持した。



この時点では、カンザスシティは、

 "ワイドオープンな町”と "罪の首都"

として知られていた。





 酒が公然と禁止された

時代に広告を出して、

バーは一晩中開いていた。


 また、ギャンブル、ギャング、

売春と麻薬のために知られていた。


その結果、町はさえ不況の間に、

かなり繁栄していたのだった。








そのいい加減な道徳律が

ナイトクラブや

ミュージシャンたちのためには

理想的な環境を創り上げていた。







そこでマクシャンは

彼の第2の家をみつけて、

Pete Johnson

Joe Turnerの様な

ミュージシャンたちと演奏した。




ここでは、彼は、彼のニックネーム

 "Hootie"をもらい、トレードマークになった

ロー・ブルーズ・スタイルを開発した。





「私がジョイントで演奏して

通したあとは、

もう朝の5時か6時くらいになっていた。


そして歩き回って、皆の話しを聞いたんだ。


それはとてもエキサイティングで、

眠りたくなかったんだよ。」








彼は素早く地元の音楽コミュニティーの

中で認められた。




12番街と18番街の周囲に集中して、

そしてインデペンダンス通りのモンロー・インで

レギュラーのギグを見つけた。





ある夜、マクシャンは12番街と

シャーロット通りでBar LuDucに立ち止まり、

初めてCharlie "Bird" Parkerを聞いた。






(Charlie "Bird" Parker)






パーカーの演奏はマクシャンに啓示であり、

彼と一緒にグループを編成する

というアイデアを与えた。






1937年マクシャンは

マーティンのプラザのでの

ギグのための4ピースコンボをまとめた。



すぐに、彼は2人の新しいプレーヤー

(サクソホンのパーカーを含む)を加えた。






マーティンは、カンザスシティの

上流階級のカントリークラブ・プラザにあり、

高級な客層に満足を与えた。







マクシャンのグループは人種の壁を

壊す最初の人物の1人だった。





マクシャンがダウンビート誌の

Chuck Haddixに説明している様に、





(Chuck Haddix)





「当時、プラザでは黒人のバンドを

使っていなかった。

私たちはプラザを再生するための

最初の黒人バンドだった。」





そして1939年マクシャンは彼のバンドを

すぐに12ピースに拡大した。

そしてPla-Mor ballroomを含む

カンザスシティーの大きな会場のいくつかで

演奏した。




その中には、Charlie Parker (1937?42),

Al Hibbler, Lawrence Anderson,





(Al Hibbler)




Ben Webster,
Paul Quinichette
,





(Ben Webster)






(Paul Quinichett)






Bernard Anderson, Gene Ramey,





(Gene Ramey)





Jimmy Coe, Gus Johnson (1938?43),





(Jimmy Coe)






(Gus Johnson)





Harold "Doc" West, Earl Coleman,

Walter Brown,そして Jimmy Witherspoon




(Walter Brown)





(Jimmy Witherspoon)





などの様々な顔ぶれだった。






彼の最初の録音のすべては

Charlie Parkerと一緒に、



1940年8月9日に

"The Jay McShann Orchestra"

として最初のモノだった。






("The Jay McShann Orchestra" )






彼らはスイングとブルーズの

ナンバーを入れたが、


バンドは録音の大部分で

ブルーズを演奏した。



"Confessin' the Blues"

最も人気があった。








1940年にウィチタのラジオ局で

KS、マクシャンと彼のオーケストラからなる

オクテットは、

1970年代まで商業的に発売されなかった

8曲の曲を録音した。




それらは全てチャーリー・パーカーの

レコード(素晴らしい "Honeysuckle Rose"

"Lady Be Good")の

最も初期のモノに属している。




そのうえマクシャンにはベーシストGene Ramey

そしてドラマーGus Johnsonといった

強いリズムセクション・チームを起用した。










フル・オーケストラは1941-1942年の間に

2回のデッカ用に録音した。




マクシャンは現代の作品のグループの

いくつかの録音を目的とした。



そこには後に"What Price Love,"と呼ばれた

パーカーのナンバーを含んでいた。






彼は"Yardbird Suite."を、


だがプロデューサーのDave Kappは


ハディックスが意図した様に、

 "急成長しているレースの市場”を



ブルーズ・ベースの曲に

主に興味を持っていた。






マクシャンは、ブルースや

ブギウギ・トラックの曲を入れるコトに応じた。



結果、マクシャンの最も永続的な大ヒット、

"Confessin’ the Blues,"

彼のシグネチャー・ソングとして残った。




曲は15万枚売れ、バンドはすぐに

デッカ用により多くのレコーディングを行った。







マクシャンのバンドがスイングと

バップ間のギャップを閉じた

いろいろな曲を録音したが、




最初の録音が天才パーカーの

"Hootie’s Blues,"

のディスプレイを含んでおり、





("Hootie’s Blues,")





バンドの初期のタイトルの成功により

マクシャンは主にブルーズ・アンサンブルの

リーダーとして知られる様になった。








しかし彼らはブルーズ・バンドとしての典型で、

より挑戦的なチャートでの録音の機会には

恵まれなかった。




(非常にまれな放送はその後浮上しており、

ビンテージ・ジャズ・クラシックスによって

CDでリリースされているが)




バード(彼は2、3の短いソロをした)を加えて

主なスターは、トランペット:Bernard Anderson、

リズムセクションと歌手Walter Brownだった。




              (ウィキペディアより抜粋)

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