◆ライブ・ハウスの3悪人(酔っ払い)♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。



<<運命のバトン(意志)は・・・。>>




”モノゴトの実現は思うほどゆっくり、

そして諦(あきら)めなければ確実に現れる。”




と誰かがおっしゃっていました。






「確かに。やり続けるコトが

成功の秘訣だとか。そう言われてもいますネ!」







そうですね。


それはフルタイム・ブルーズ・マンとして

活動を開始した彼にも言えそうです。






「さぁ!彼は決断して、

活動を開始しましたネ!」





そうです。

でも・・・。



彼の活動自体は比較的

ゆっくりとしたものだった様です。





「???」




「それは・・・。以外でしたね。」






それはなぜですか?






「好きなコト・・・。つまり・・・。」




「彼の場合は女性ですね。」





「女性を追っかけ。ハントするコト。」





「それについては、それこそ・・・。


命懸けだったのに対してです。」











なるほど。



そうですね。


当時の状況が余りにも

人種的に過酷な状況だったとしても、



彼は女性関連でもめて、

故郷のミシシッピーを

逃げ出さざるを得なかったですからネ!





「それで、どの様な活動ペース

だったのでしょうか?」






そうですね。

ちなみにどの位のペースかと言いますと、


1959年にセカンド・ギター・リスト

と意気投合してバンドを結成します。





「OH!」





でもそれは彼がフルタイムのブルーズ・マンに

なることに決めたときから2年かっています。





「確かに・・・。」(イラ・・・。)





それで、その時はバンドと言うよりは

まだデュオ(2人組)ですけどね。





「そうなのですか?」






そうです。



正式なドラマーがついたのが

1965年です。





「正式ドラマーの決定に6年がかりですか・・・。」







実は彼はそのドラマーとは10年前に

出会いがあります。





「ほぅ!ひょっとすると、

それはどこかの居酒屋でしょうか?」





それが。エルモア・ジェームス

の葬儀だったそうです。





(エルモア・ジェームス





「それは良い意味での”以外”でしたね。」




そうです。




「確か彼のギターのスタイルを真似た、

その対象がエルモア・ジェームスですからネ!」





「ウ~ン!運命的なモノを感じますネ!」






ドラマーを得て

彼が新生のバンドとして

スタート切るコト。



それが、

ジェームスからのバトン(意志)を手渡された。

その瞬間だったのかもしれませんネ!






<<ハウンドドッグ・テイラー続く!>>




今回ご紹介するブルーズ・マンも

前回に引き続き、

ハウンドドッグ・テイラーです。





(今回ご紹介するブルーズ・マンも
前回に引き続き、ハウンドドッグ・テイラーです。







彼は仲間を得て、最も幸せな時間を過ごします。




恐らく今まで彼のポテンシャルを

発揮できる受け皿がなかったコト。




それが彼がバンドの結成に

時間をかけた理由のヒトツではないかと




そう思われます。






「なるほど。」





彼の個性でしょうが、

安いギターアンプを買ってきて





「ハイ」





その音がかなり歪(ひず)んで響くのです。





(その音がかなり歪(ひず)んで響くのです。)







「普通のミュージシャンなら

嫌がりますネ!」






更には彼は持ち前の

スライド・ギターのテクニックで

ギターを上手に泣かせるコトが

出来たのです。





「女性ならずも、

ギターまで泣かせるのですか!」






凄いですよね。^^




そいう意味では

彼は天性のプレイボーイなのかもしれませんネ!





「それと・・・」





はい?





「他にもバンドの結成が遅れた理由が

何かあるのでしょうか?」






それは、恐らく”お酒”です。





「確か女性以外に、

お酒もかなりイケタそうですね。」






そうです。


ライブの前になると、

これはもう儀式化していたのでは

ないでしょうか?





「そうですか?」






はい。


最初にウイスキーの

ストレート・ショットを飲んで、





「ハイ」





それからカクテル(混合酒)で

それを追いかけました。





「なるほど」






それから更にビール・グラスを

1杯飲み干したそうです。




しかもそれらの3つの飲み物は

素早く飲み干されたそうです。






(しかもそれらの3つの飲み物は
素早く飲み干されたそうです。)







「駆けつけ3杯とはいいますが、

それではライブの予行練習はミッチリと

やっておいたのですね。」







それがですね。






「ハイ」





彼はいかなるライブでも

リハーサルを決してやらなかったそうです。





「それは驚きです。」




「でも、何とな~く

わかってはいましたが・・・。」 
^^






そうです。


それでは酔ったその勢いで

それもあったかとは思いますが、


それが”彼らの演奏スタイル”だったのでしょう。





「と言うことは

残りの2人もですか?」






そうです。彼らは概して大酒飲みで、

相当な量のアルコールを平らげた後で

演奏したそうです。




しかもですよ!





「ハイ!」





彼らは一晩中演奏したとも、


6、7時間のショーは普通だったそうです。





「酔っ払って。それから

ライブを6、7時間も演奏するのですか?」






「それは凄いエネルギーですね。」





「通常(シラフ)のバンドでも

そこまでは出来ないのではないでしょうか?」






「何か彼らを熱く焚(た)きつけるモノが

他にあったのでしょうか?」









そうです。長時間のライブ。

それには囁(ささや)かな

条件がありまして・・・。。







「ハイ!」






もし彼らのために

遅くまで酒場が開いているのなら・・・。





これが条件だそうです。






「バンドの結成が遅れた理由。

よ~く分かりました。」








☆hound dog taylor ♪


☆Hound Dog Taylor And The Houserockers - she's gone... ♪


☆Hound Dog Taylor & The House Rockers - Philip's Theme ♪


☆Hound Dog Taylor and The HouseRockers  ♪







☆ハウンド・ドッグ・テイラー HOUND DOG TAYLOR


本名:セオドレ・ルーズベルト・テイラー


 ( 1915年4月12日 - 1975年12月17日)


アメリカン・シカゴブルーズ・シンガー、ギターリスト






<キャリア>



ハウンド・ドッグのバンド、HouseRockersは

ゆっくりと活動した。





1959年にウエストサイド居酒屋で

演奏している間、

Brewer Phillips(ミシシッピー生まれ)

という名のギタリストは

初めてDogと演奏した。





(Brewer Phillips)




2人はすぐに友達になり、

そして、フィリップスはHouseRockersの

 セカンド・ギタリストになった。







1960年には零細レーベル、ビー&ベイビーから、

ハウンド・ドッグーは彼のファースト・シングル

"Baby Is Coming Home"/"Take Five"

をカットした。



だが、シカゴ以外では

そのシングル版は普及しなかった。





1961年、 Freddie King

インスト・ナンバー "Hideaway"でスターになった。





(Freddie King)





ハウンド・ドッグがこの頃シカゴのクラブで

演奏していたものをキングが聴き、

自分のレパートリーに取り入れたと言われている。


☆Hound Dog Taylor - Hideaway♪




ハウンド・ドッグは、曲の作曲者としての

クレジットを受け取ることはなかったが、



キングが彼に借りを作ったいくらかの

ブルーズ・マンの唯一のひとりとして、



それによって悩ままされるコトは

なかったようだ。







1955年にTed HarveyがElmore Jamesのバックを

勤めていたときに、

彼とハウンド・ドッグは最初に出会った。





(Ted Harvey)





1962年にFirma Recordsより

セカンド・シングル"Christine"

/"Alley Music"

リリースしシカゴのシーンで人気を博すが、



ハウンド・ドッグの存在が

広く知られるには至らなかった。







1963年のジェームスの葬儀以来、

テッドとハウンド・ドッグは2度目の再会だった。



1965年にLevi Warrenに代わって

テッドをメンバーに誘った。

この時点で(そして、それからあとは)

HouseRockersは3人だけだった。








ハウンド・ドッグはスライド・ギターとヴォーカル、

フリップス

(誰も彼をその名前では決して呼ばなかった)

は6弦のベースそして時々リード・ギターを演奏した。


ドラムはテッドが演奏した。


3つの演奏はかなりの大がかりのバンドのようだった。






彼らは大声で、そしてテイラーは

一つには彼の安いアンプのおかげで、


他の誰にも出来ない様な

ディストーション(歪んだ音)を

ギターより得ることができた。






しかし彼はまた他の誰とは違い

ギターを泣かせるコトができた。






バンドとともにライブをしたとき、

彼は本当に才能のある

スライド・プレーヤーで、

最も幸せモノだった。





HouseRockersは、いかなるショーの前にも

決してリハーサルをしなかった。





(HouseRockers)





彼らはまた大酒飲みで、概して

相当な量のアルコールを平らげた後で

演奏した。






どの様なショーの間でも、

ハウンド・ドッグは最初に

ウイスキーのストレート・ショットを飲み、

カクテル(混合酒)でそれを追いかけた。



それからビール・グラスを1杯飲み干した。




3つの飲み物は素早く飲み干された。






その後、彼はプレーする準備ができていた!



ハウンド・ドッグはショーを始める前に

いつも”なぁ、ちょっと楽しいもうぜ!”

のようなコトを言った。



そして彼らはそうした!




彼らは一晩中演奏した。

6、7時間のショーは普通だった。


ーもし彼らのために

遅い酒場が開いているのなら。






1967年にはチェス・レコード傘下の

チェッカーにも "Watch Out"

/"Down Home"

レコーディングを行っているが、

当時はリリースされなかった。




この頃アメリカン・フォーク・

ブルース・フェスティバルの

バンド・メンバーとしてヨーロッパ・ツアーも

経験しているがあくまでもサポート役であり、

注目を浴びるには至っていない。






             (ウィキペディアより抜粋)



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