◆伝説!それは時には重く、時には軽く背中を圧す♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<原点はデルタ・ブルーズ!>>



”自らの腹中深くにに収めおく”


と言うモノがヒトにはあるそうです。




「それは何でしょうか?」





あるヒトのお話しですと、

それは”神様の分霊(わけみたま)”だそうです。




「分霊(わけみたま)ですか?」





はい。それは命の源(みなもと)とも

言えるそうです。





「なるほど。そうすると

ヒトのカラダの中には

”神様の分霊(わけみたま)”が

入っているワケですね。」







どうもそうらしいです。




それでは、

ヒトのカラダの中には

”神様の分霊(わけみたま)”

入っているにも関(かか)わらず、



何故、ヒトは神様の様に

自由ではないか?

と言いますと、




どうもその周りに、そのヒトを

自由にさせない何かが取り巻いている

そうなのです。






「ホウ!それは何でしょうか?」








どうやら我(エゴ)とか

言われるモノらしいのです。





「我(エゴ)ですか?」











どうも、そうらしいのです。






以前、個性と言うコトについて

お話ししたかと思いますが、



自分がこれでもか!これでもか!

と思って努力を重ね、


しきりにアウトプットするワケですが、





それはある意味、

”自身のいらないモノを削ってゆく”



その作業を

繰り返しているのではないかと、


そう思います。





「と言いますと?」





それは自らの腹中

深くの収めている

”神様の分霊(わけみたま)”
ですね。



それを探り当ててゆく

作業のヒトツではないかと

思われます。






「と言うコトは、

その分霊(わけみたま)に取り巻いている、


その我(エゴ)を

かき分けている状態でしょうか?」










そうと言えるかもしれませんネ!





強いて言うのであれば、

ミュージシャンの場合ですと、




その”神様の分霊(わけみたま)”

”音楽の原点”に当たるのかもしれません。










今回ご紹介するブルーズ・マンですが、





30代に2度ほどレコーディングに

挑戦しますが、あえなくオクラ入り。




「あ~あ。お可哀想に。」





3度目で自分のベスト!

強いて表現しますと、



今での音楽人生を架けて、

全身全霊を込めた作品をリリースしますが、





「 O H ! 

スゴク、気合い入ってますネ!」 






評価を得るコトが出来ず。





「あらら・・・。」






それから彼は業界にも見切りをつけて

音楽業界からは一旦、

身を引いてしまいます。





「それは、なんとも・・・・。


寂しい展開ですね。」







それでも業界との接点は完全に

キレたワケではなかったのです。





「と言いますと?」





地元のライブ・イベントで

カメラマンなどをやっていました。




「やはり、彼の中でも

音楽に対するコダワリの様なモノが

あって、

完全にサヨナラは

出来なかったのですね。」







おそらくそうでしょうネ!





そこでブルーズ歴史家に発見されて、



レコード会社からは

ブルーズの古典アルバムへの

録音を依頼されるのです。






「OH!それは思わぬ展開でしたね。」






ここで彼は”自分の音楽の原点”

向き合うコトになります。





<<ジョニー・シャインズ登場!>>


今回ご紹介するブルーズ・マンは

ジョニー・シャインズです。



(今回ご紹介するブルーズ・マンは
ジョニー・シャインズです。





古典的なブルーズも

味わい深いのですが、


シカゴ・スタイルの

唸(うな)るような

彼のパワフルな歌いっぷりも

素敵ですよ。




「確かにライオンの様に

吠えていますね。」





どちらかと言いますと

古典的なブルーズのスタイルよりも


こちらの方が、

エネルギッシュな彼の本領を

遺憾なく発揮されている様に

思いますネ!







そうそう。



古典と言えば、


彼はロバート・ジョンソンと

一緒にツアーをやっていた時期が

あります。




「あの・・・。

追っかけジョンソンですか?」





(Robert Johnson)



そうです。



そして、

その追っかけられた女性の子供。



義理の息子ですが、その

Robert Lockwood, Jr.





ともツアーをしたコトが

あります。





「デルタ・ブルーズの伝説的な巨人と

その義理の息子と、共にめぐり逢い

ツアーをしたのですか?


何と言う縁でしょうか!

これはもう彼の音楽の原点が


彼の音楽、

そして人生を支えているとしか

思えませんネ!」






そうですネ。



彼もインタビューを受ける機会が

幾度となくあったワケですが、



やはり、ブルーズ・マンで、

その神話的存在のジョンソンに

実際に一緒に行動したコトのある人物、


と言うコトになれば・・・。




お話しの方向性が、

ともすると、



ご本人のコトを差し置いて

ジョンソンの方へと

向いてくるワケですよ。






「それは・・・。

彼にとってみれば、

それは心中、

穏やかではない状況かと・・・。」






それは当然そうですね。


でも、古典的なブルーズを

彼のレパートリーから外すコトは

なかったそうです。





「なるほど。何と言っても

古典的なブルーズは

彼の”音楽の原点”であって、

彼自身の言わば、ルーツですからネ!」








☆Johnny Shines "Sweet Home Chicago" ♪



☆Sitting On top Of The World ...Johnny Shines ♪  
 


☆Johnny Shines - My Love Can't Hide ♪



☆They Call Me The Little Wolf
Johnny Shines Robert Lockwood, Jr. ♪






☆ジョニー・シャインズ

  JOHNNY SHINES


 (1915年4月26日- 1992年4月20日)


アメリカの ブルース・シンガー、ギタリスト。






音楽ジャーナリストのトニー・ラッセルによると


シャインズは稀な人間で、

若い頃の作品に寄り添って

音楽を作るには、


年齢が行き過ぎているコトや

古ボケていることなどの条件を

克服したブルーズのアーティストだった。




シャインズが1965年にブルーズに戻ったとき、

彼は50歳だった、


それでも、彼の声には12年前の

ライオンのような力があったのだ。


それは彼の評判に基づいて

録音した時のコトだった。






(略歴)


彼はアメリカ合衆国メンフィス

フレイザーの

ジョン・ネッドシャインズに生まれた。



彼はテネシー州メンフィスで

幼児期のほとんどを過ごした。


路上でのチップを得るために、

そして地元の”ジュークス”で

早いうちにスライドギターを演奏した。



彼はCharley Patton,


(Charley Patton)




 Blind Lemon Jefferson



(Blind Lemon Jefferson)




Lonnie Johnson,




(Lonnie Johnson)




そして若き

Howlin' Wolf同様に




(Howlin' Wolf)





触発された。


しかし彼は母親からギターの演奏を教えられた。



シャインズは1932年アーカンソーのヒューズに

移って、彼の音楽のキャリアを保留にして、

3年間、小作農として農場で働いた。





 Robert Johnson

との偶然の出会いだった。



 (Robert Johnson& JOHNNY SHINES)




それは彼の最も大きな影響であり、


それが音楽に戻るために彼に

インスピレーションを与えた。






1935年にジョンソンとツアーをした。

南へツアーして、ずっと北の

オンタリオへ向かった。


彼らは両方の地元のラジオ番組に

出演したのだった。





2人は1937年に彼らは別々の道を歩いた。

それはジョンソンが亡くなる1年前だった。




(Robert Johnsonの墓)



シャインズがシカゴに落ち着く

1941年まで

アメリカ合衆国の南部全域で

演奏した。


そこでシャインズは建設産業で仕事を

見つけた、だが地元のバーで演奏は続けていた。






彼の最初の録音は1946年に

コロンビア・レコーズ用だった。

しかし録音は決してリリースされなかった。





1950年に彼はチェス用に再浮上、


チェス用のカットはめったに

リリースをされなかった。


(たまたまリリースされた時、

しばしば彼も

他のミュージシャンと同じ様に

 "Shoe Shine Johnny"「靴磨きのジョニー」

の名前で登場した。)





その一方でシャインズはライブ・ショーや

レコーディング・セッションで

他のア-ティストのサポートの仕事を

探していた。





彼はもう数年シカゴ地域で

地元のブルース・ミュージシャンと演奏を続けた。





1952ー53年にシャインズはJ.O.B. レコーズ用に

彼のベスト・ワークと考える録音をした。

(ハーモニカの Big Walter Hortonが

しばしフュチャーされた。)



しかし彼らは商業的に

正当な評価はされなくなり、

そしてシャインズは

サポート役へと戻っていった。





1958年にはミュージシャン組合の

財政紛争に飽き飽きして、

そしてシャインズは音楽業界に失望した。


シャインズは音楽ビジネスを辞めて、

彼の全ての器材を質入れして、


建築の仕事だけで単に

生計を立てたのだった。






しかしシャインズはライブ・イベントの

カメラマンとして働くコトで、

地元のブルーズ・シーンにつながっていた。


そしてそのライブ・イベントでは

記念品として後援者たちに写真を売っていた。






結局、彼はブルーズ歴史家によって捜されて、

1966年に、バンガード・レコーズがシャインズを

シカゴのブルーズ・クラブで見つけた。


そして彼にChicago/The Blues/Today!の

第3巻のインストゥルメンタルを録音させた。




(Chicago/The Blues/Today!Vol3)



そのことは彼のキャリアを若返らせた。






アルバムは、それ以来ブルーズ・クラッシクに

なった。そしてそれがシャインズを

主流の音楽シーンへ連れて行った。






シャインズのカット・セッションは

Testament用の

(1966's Master of the Modern Blues,

 Vol. 1 Big Walter Hortonと1組)




(1966's Master of the Modern Blues Vol. 1)




そしてBlue Horizon用の

(1968's Last Night's Dream)で、

聞いている人々の多くに効果的に

紹介された。




(1968's Last Night's Dream)




今回の反響は非常に大きく、

そしてシャインズは道を当てた。


最初はLee Jackson,



(Lee Jackson)




 Big Walter HortonそしてWillie Dixonに




(Big Walter Horton)




(Willie Dixon)




並んでChicago All Starsと共にツアーをした。



それから彼自身のバンドを率いた。



その一方で彼の娘は不慮の死をとげた。

残されたシャインズは彼の孫を引き取った。





都市環境で彼らを育てることについて

心配して、

シャインズは1969年タスカルーサ郡

アラバマ州のホルトに家族全員と移った。





アラバマ大学の学生、Natalie Mattsonが

彼がその地域に住んでいるんコトを

知ったトキ、彼女は彼をコーヒーハウスに

誘った。



そこは "Down Under"として知られていて

彼女がキャンパス内で活動していたのだった。


彼はいくつもの折に演奏した。




そしてDown Underで彼と共に出演させる

為に彼の友人のブルーズ・アーティスト

Mississippi Fred McDowellもまた

駆り出された。




(Mississippi Fred McDowell)




それは彼がそこへ移った後のアラバマでの

早い時期での出演のいくつかだった。


彼はアラバマのホルトで生活している間

国際的なブルーズ・サーキットで演奏を続けた。





彼自身の一般に高品質の仕事にもかかわらず、

シャインズは単にロバート・ジョンソンを

取り巻く神話のため、

多くの白人のブルース・ファンへの

魅力的な人物だった、


そして、彼は彼自身の音楽と現代のキャリアを

検討することを除外して

繰り返しジョンソンに接した経験について

取材された。


そしてそれは無理もない話だが、

しばらくして彼を失望させたのだった。






しかし、それは彼がアコースティックの

デルタ・ブルーズの中で

彼のルーツを再発見し、または、


ジョンソンの古典の歌の多くを

彼自身のレパートリーに含むのを止めなかった。





実際、1960年代と1970年代後期にシャインズは

ロバート・ジョンソンの義理の息子の

Robert Lockwood, Jr.

とツアーをした。




(Robert Lockwood, Jr.)




彼は最後のオリジナル・デルタ・ブルーズ・

ミュージシャンだった。





1980年、残念ながらシャインズの音楽は、

彼が脳卒中の発作により足踏み状態になった。


脳卒中は彼のギターに多大な影響を与えた。



彼のギターは以前の栄光へと戻るコトは

なかった。


しかし彼は以前の様に効果的に

歌うコトができた。


そして彼の学生の何人かに助けられ、

彼はツアーでアメリカやヨーロッパに続けた。





彼は後に、Robert Johnsonを探求する

1991年のドキュメンタリーで出演し演奏した。




(The Seach For Robert Johnson




そして最後のアルバムBack To The Countryを

リリースした。




(Back To The Country)




それはW.C. Handy 賞を受賞した。


それはSnooky PriorとJohnny Nicholasからの

演奏を特徴としていた。



(Johnny Nicholas)




1989年、シャインズはKent DuChaineに出会った。



(Kent DuChaine)




そして彼ら2人シャインズが亡くなるまでの

次のいく年間ツアーをした。



シャインズはアラバマのタスカルーサで

1992年4月20日に亡くなった。


彼は後に、同じ年、ブルーズの栄誉の

殿堂入りを果たした。

 

     (ウィキペディアより抜粋)



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