◆弟子はその時、魂(ソウル)を継承せり!♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<必要とされた追っかけ男(オトコ)>>



出どころは定かではありませんが、


”人生において必要とされるトキ

それは与えられる”



と申します。





「確か新約聖書でも

*”求めよ、さらば与えられん”

と言うコトバがありましたね。」






*”求めよ、さらば与えられん”とは?


与えられるのを待つのではなく、

自ら積極的に努力すれば、

必ずよい結果が得られるということ。







おそらくそれらの行為は

同時進行に起こるのではないのかと

思われます。





今回ご紹介のブルーズ・マンは

8歳の時に父親の教会で

オルガンを引き始めるのですが、




「ハイ」




その後両親が離婚してしいます。



「なるほど」




それで母親と一緒に暮らすのですが、




「ハイ」




その母親を追いかけて

ある男がやってきてしばらく同居するコトに

なります。








「なんだか。

ややこしそうな人間関係に

なりそうな気配がしますネ!」




「それでその追っかけの男性は

どうしたのですか?」







10年間くらい同居していた

そうなのですが、

その間に彼にギターなども

教えたそうです。






「ギターなども教えたと言うコトは

その追っかけ男性はミュージシャンですか?」






そうです。それもかなり有名な人物です。






「ホウ!」





そして彼は13歳頃に

2年間程、直接指導を受けていたとか。




聞いたお話しによりますと・・・。





「はい」





その男性はギターのテクニックだけではなく

もっと大切なコトを教えたのではないか?


そう思われます。










「それは何でしょうか?」





ギターの演奏法、タイミング、

ステージでの振る舞い方などの


テクニックの面も確かに

大切ではありますが、


もっと大切なのは・・・。




やはり中身でしょうね。






「中身ですか?」







聴きに来てくれている

観客の皆さんにも

おそらく分かるとは思いますが、




これはひょっとしたら・・・。




ある意味、

プロフェッショナルとアマチュアを

分けるモノではないかと


思われます。






「プロとアマを分けるモノ

それは何ですか?」











それは魂(ソウル)ではないでしょうか?





「魂(ソウル)ですか?」





はい。




「それではあまりにも抽象的ですね。」





失礼しました。



それは師から弟子へと代々受け継ぎ

継承されてゆくモノかもしれません。





「はぁ?」





”ヒトはヒトからしか学べない”

と以前、言いましたが、


その面ですね。





先人が発見して研鑽したモノを

次に継承してゆく。



その過程において

テクニックを超えたまさに魂(ソウル)を

受け継いでゆくのではないかと・・・。




そう思いマス。






「そのためにはその男性が

彼の母親を追っかけて

同居する必要があった。」



「そして彼に出会い。

テクニックを超えた魂(ソウル)を

継承させる必要があった。」





「そう言うワケですね。」





そうです。


そして彼が直接、その男性から

テクニックを超えた魂(ソウル)を

受け継ぐ必要があったのではないか。


そう思います。





「なるほど」







そして彼は様々ミュージシャンとの

セッションやレコーディング、ツアーを

通じてモダン・ブルーズの

スタイルを確立してゆきます。





「あの・・・。」





はい。





「ちなみにその彼の母親を

追っかけていた男性とは、

いったい誰でしょうか?」






ロバート・ジョンソンです。








「あの*クロスロード伝説の

ロバート・ジョンソンですか。」





*クロスロード伝説とは?



アコースティック・ギター一本で

ブルースを弾き語りして、

アメリカ大陸中を渡り歩いた。


当時の聴衆はギターのテクニックが

巧みなのに驚き、


「十字路で悪魔に魂を売り渡して

引き換えにテクニックを身につけた」

という伝説。






<<ロバート・ジュニア・ロックウッド登場!>>




今回ご紹介するブルーズ・マンは


ロバート・ジュニア・ロックウッドです。


(今回ご紹介するブルーズ・マンは
ロバート・ジュニア・ロックウッドです。






彼にに対する呼称は数々あります。




”ロバート・ジョンスンの義理の息子”




「追っかけ男ジョンソンですか。^^

これは事実ですね。」






”黄金時代のシカゴ・ブルースを

支えた裏方ギター職人”、





「確かに、着実にその実力で遺憾なく

数々のミュージシャンを

支えてこられてきたのではないかと

思われます。」






”B.B.キングと比して語られるべき

モダン・ブルース・

ギター・スタイル確立者の一人”





「確かに初期のカントリー・ブルーズの

泥臭さから時代を経るに従って

モダンなスタイルに変わっていってますネ!」







そして” 生 き 神 様 ”




「OH!それは凄い形容ですね。」



「でも彼の映像を観ると

成るほどと思いマス。」


「そこはかとなく漂う雰囲気。」


「彼にしか出せないであろう。

その音色。」


「感動します。」



「そして素直に。

こんな姿の神様もいてもいいかなって、

その様な感じがしますネ!」









先ほどの師から弟子への

継承のお話しには続きがあります。




「ホウ!それはどの様な

お話しなのでしょうか?」






川をはさんでジョンソンと

ロックウッドは演奏をしたそうです。




「ハイ!」




その時その演奏を

1km離れた橋の上から聴いた

そうなのですが、





「はい」




どちらがジョンソンの演奏なのか

それともロックウッドなのかを

聞き分けられない程だったそうです。




「ホウ!」





それ程もまでに、

彼の演奏と魂(ソウル)は

継父のジョンソンと


見まごうばかりレベルに

達していたのではないかと

思われます。




「いいですね。」





おそらく。

そのセッションで一番楽しんでいたのは

それを聴いていた人たちではなく・・・。





「やはり、

師匠ロバート・ジョンソン!


そしてその弟子のロックウッド!」





そう!


・・・ではないかと思われます。





☆Robert Lockwood, Jr. & Carey Bell

- I'm a Steady Rollin' Man ♪
   



☆ Robert Lockwood Mean Red Spider ♪



Robert Lockwood, Jr. - King Biscuit Time ♪



☆Robert Lockwood Jr. - See See Rider Blues ♪







☆ロバート・ジュニア・ロックウッド 

  ROBERT JR. LOCKWOOD


 (1915年3月27日- 2006年11月21日)


 アメリカのデルタブルース・ギタリスト。

1950年代と1960年代にChess Recordsと

他のシカゴ・レーベル用に録音した。



彼は、 Sonny Boy Williamson IIの長年の



(Sonny Boy Williamson II)




協力者として、そして、1950年代中頃


Little Walterとの仕事により




(Little Walter)




最も良く知られている。




<略歴>


(初期の人生)

ロバート・ロックウッドはアーカンソー州

ヘレナの西の村トルコスクラッチで生まれた。


彼は8歳の時に父親の教会で

オルガンを弾き始めた。


 

有名なブルーズマン、Robert Johnsonは



(Robert Johnson)




彼の両親の離婚後にオフとオンを10年間

ロックウッドの母親と住んでいた。



(ロバート・ジョンソンが

ロバート・ロックウッド・ジュニアの

母親を追いかけて、


アーカンソー州のヘレナに来た事から

義理の親子関係が始まったようです。)




(そこでロックウッドは

義父のロバート・ジョンソンからも

13歳頃に2年間程の直接指導を受けていた。)





ロックウッドはジョンソンから

ギターを演奏する方法だけでなく

タイミングと舞台度胸を学んだ。




ロバート・ジョンソンの音楽と

彼の個人的かつプロフェッショナルな

関係によって、




 "ロバート・ジュニア"ロックウッドは、

彼の人生の残りの仲間のミュージシャンの間で

ニックネームとして知られるようになった。




彼は後に頻繁にこの名称に対する

彼の嫌悪感を公言したのだった。







(初期のキャリア)


15歳では、Lockwoodはヘレナエリア内の

パーティーで専門的に演奏した。


また、彼はしばしば準継父Robert Johnsonと

時折 Sonny Boy Williamson II や

 Johnny Shinesと演奏をした。




(Johnny Shines)





ロックウッドは、1930年代にミシシッピデルタを

通してfish fries(ジューク・ジョイントなどで


料理「フィッシュ・フライ」を主餐に行われた

週末のパーティー)、juke joints(盛り場)

そして街角で演奏した。







ロックウッドのウェブサイトからの主張からの

ひとつの逸話がある。



 Robert JohnsonがSunflower Riverの片側で

演奏した。


ロックウッドがその対側で演奏した。


ミシシッピーClarksdaleの人々は

橋の上でひしめき合ったそうだ。


おそらくどのギタリストが本当のRobert Johnson

であったかについて見分けることが

出来なかったのだと。








ロックウッドは、1938年と1939年のミシシッピ州

ClarksdaleでSonny Boy Williamson II と

共演した。




彼はまた、1938年ごろのテネシー州メンフィスで

Howlin' Wolf




(Howlin' Wolf)




他ミュージシャンたちと共演した。



1939年から1940年は彼はセント ルイス、ミズーリ州 、

 シカゴ 、 イリノイ州そしてヘレナでの演奏に

時間を費やした。






1941年にロックウッドはイリノイ州オーロラで

ブルーバード・レーベル用にDoctor Claytonと

一緒に初のレコーディングをした。




(Doctor Clayton)




 これらの同じセッションの間に、

彼もまた4曲録音した。


それは彼自身の名前で

2曲のファースト・シングルとして

発売された。




それは彼の主要なレパートリーの

初期のヴァージョンだった。


それらの録音はBluebird Recordsの

78sとして発売された。








また1941年には、ロックウッドと

ウイリアムソンはヘレナのKFFA局の

ラジオ番組  King Biscuit Time

にフィーチャーされた。





1940年代初期の数年の間。二人は

ヘレナの内外で一緒に公演をして、

King Biscuit Timeとの関係も

継続していた。




1944年ごろから1949年までロックウッドは

ウェスト・メンフィス、アーカンソー、

セントルイス、シカゴそしてメンフィスと

演奏した。




ロックウッドは初期のB. B. King

影響を与えた。




(B. B. King)




メンフィスでの彼の初期のキャリアは

キングのバンドと一緒の演奏だった。






1950年に、ロックウッドはシカゴに住みついた。





1954年に、彼はリトル・ウォルターのバンドの

ギタリストとしてLouis Myersの後を継いだ。




(Louis Myers)




そして1955年にリトル・ウォルター・バンドの

NO1ヒット作"My Babe"で演奏した。




彼はその後間もなくリトル・ウォルター・バンドを去った。




50年代後半に、チェス・レコーズ用に

 Sonny Boy Williamsonといくつかのセッションを

録音した。


セッションにはWillie DixonやOtis Spannとも

含んでいた。




(Willie Dixon)





(Otis Spann)





ロックウッドはまたSunnyland Slim,





(Sunnyland Slim)




 Eddie Boyd,




(Eddie Boyd)




そしてMuddy Waters

他との録音または演奏が

なされた。





(Muddy Waters)






(後のキャリア)


1961年に彼はオハイオ州クリーブランドに移った。

そこは彼の妻の故郷で、彼はそこで死ぬまで過ごした。



1960年代初期に "Bob Lockwood, Jr.and Combo,"

として Loving's Grillでレギュラーのギグを持った。

そこは8426 Hough Avenueにあった。




1970年代から1990年代を通して

多数のローカル会場で、

彼のバンドthe "All Stars"

とともに定期的に演奏した。



それにはPirate's Cove, The Euclid Tavern

そしてPeabody'sが含まれていた。






彼の最後のキャリアの2、3年間、

ロックウッドは毎週水曜日の夜の8時に

 レストラン・バー

Cleveland's Fat Fish Blueで

(ダウンタウンのProspectとOntarioの角)

演奏した。



 the "All Stars"は彼の死後そこで

演奏をし続けた。





彼のクリーブランド期間も、

バンドのリーダーとして彼の最も注目すべき

スタジオ録音のいくつかの発売をみせた。




最初はソロを演奏したアルバムのペアとして

 Trix Records labelの時に彼のバンドと共に


そして Rounder labelの2つのLP用に

Johnny Shinesと共に。



後者は両者に断固として音楽を演奏した。

彼らはブルーズ観衆のおなじみのリクエストより

ロックウッドの姿勢を維持したのだった。






バンドなしではあまり演奏しなかったが、

彼もまた自身の材料としてのソロ・アルバムを

2、3曲は Robert Johnsonのスタンダード曲を

 Plays Robert and Robertのタイトルで

録音した。



ロックウッドは、時々無愛想に、

活発にジョンソン伝説を扱ってきた。




彼がアルバム

 Plays Robert and Robert(1983年)のために




(Plays Robert and Robert(1983年))





ジョンソンの歌に彼がまれにアルバムの

詳述の1つを行ったとき、


彼が1本の12弦ギターを小悪魔のように

選んだことは典型的だ。





2004年に、ロックウッドはテキサス州ダラスの

Eric Clapton's first Crossroads Guitar Festival

に出演した。


(Eric Clapton's first Crossroads Guitar Festival)




ライブは2004年の10月のダラスで

3名の他のミュージシャンと共に録音された。



ーLast of the Great Mississippi

Delta Bluesmen: Live In Dallasー

ー「最後の偉大なミシシッピデルタ・ブルーズマン」

ダラス・ライブー





(Last of the Great Mississippi
Delta Bluesmen: Live In Dallas)




は Best Traditional Blues Albumとして

またはHenry Townsendと Robert Lockwood Jr.

はグラミー賞を受賞した。




それはミュージシャンとして

初のグラミー賞だった。








彼の最後のレコーディング・セッションは

クリーブランドのAnte Up Audioで

行われた。

そこで彼はアルバム The Way Things Go

を演奏した。


そこでは

Honeybee Entertainment用の長年の

協力者Cleveland Fatsと一緒だった。




ロックウッドはクリーブランドで

91歳で亡くなった。(2006年11月21日)


それ以前に脳動脈瘤と

脳卒中にかかっていたのだった。



彼は、クリーブランドの川沿いの

墓地に葬られた。






       (ウィキペディアより抜粋)



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