◆身はパリに心は故国(ここく)に納めおく♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<個性とは味わいとは?>>



スローバラードでは

ハリのあるアマやかさを

醸し出し♪




「ほうほう」



軽快でノリの良いジャンプの

リズムを刻み ?




「ほうほう!」





ピアノ・ソロでは

クラシックな枯れた感じの

シティ・ブルーズを響かせ ?





「ウ~ン」


「全天候型。

ほぼマルチ対応の方でしょうか?」








時代に流行りは当然あるかとは

思いますが、


それはプロである以上、

観客にもウケが必要なので



その時々の流行りを

バンドのスタイルとして

入れるコト。






それは必要なコトでしょう。









「そうですネ!」





でも、それを繰り返しつつも

音楽を続ける上で、


そこからどうしても

切り離すコトができないモノ


それが個性と言うのなら



それが彼のスタイルとなり、

味わいとなるのではないかと思われます。






<<メンフィス・スリム登場!>>




今回ご紹介するブルーズ・マンは

メンフィス・スリムです。




(今回ご紹介するブルーズ・マンは
メンフィス・スリムです。)






「確かに時代時代の流行りは

あるかとは思いますが、

このハリのある声、


素晴らしい艶っぽさ。」





「いいですね」





他のブルーズ・マンとの共演も

素晴らしいですヨ!




「今でしたらプラチナカード

間違いナシ!ってところでしょうか?」






私が気になったのは

1987年に録画された彼の映像です。





「と言いますのは

どう言った理由でしょうか?」







実は彼は1988年にパリで亡(な)くなっています。






「ハイ、すると亡(な)くなる1年前ですか?」







そうです。


確かに往年のパワーはないにしても

ハリのある彼の声はまだまだ健在で



それに非常に簡単なリズムの

ブルーズなのですが、



観客を楽しませるコトに

喜びを感じている。




その様子が感じられて



改めて彼のブルーズ・マンとしての

人生に拍手を送りたい


そんな気持ちになりました。






「最後までプロであり続けるコト。」


「そして最後まで

そのスタイルを貫(つらぬ)くこと、」





「そのスタイルを受けてお客さんも

楽しんでしまう。」






それが彼の評価となり

更に個性と呼ばれ、



1962年にパリに移ってから

ヨーロッパだけではなく米国でも

多くの皆さんに支持されてゆきました。





「いやーっ!

素晴らしいミュージシャンであり、

素晴らしい人生ですね。」








☆ Willie Dixon, Memphis Slim, T-Bone Walker... ♪


☆Muddy Waters, Memphis Slim, Willy Dixon,
 Otis Spann et al. - Bye Bye Blues♪
   


☆Memphis Slim: Bye Bye Blues1987 ♪





☆メンフィス・スリム  MEMPHIS SLIM


本名:ジョン・レン・チャットマン


 (1915年9月3日- 1988年2月24日)


アメリカの ブルース・ ピアニスト 、

歌手 、そして作曲家 。




彼はジャンプ・ブルースの人気を反映して

サックス、ベース、ドラムそしてピアノを

入れた一連のバンドを率いた。




彼が1947年に最初にカットした歌は

"Every Day I Have the Blues",で、

多くの他のアーティストによって

録音されて、ブルーズのスタンダードに

なった。



彼は500を超えるレコーディングを行った。





(That's what we're talking' about.)





<略歴>


メンフィス・スリムの出生名は

ジョン・レン・チャトマン。

彼はアメリカ合衆国テネシー州、メンフィスで

生まれた。




彼の父ピーター・チャトマンは歌って、

ピアノとギターを演奏して、

ジューク・ジョイントを管理していた。


そして、彼が1940年にOkeh Recordsのために

最初に録音をしたとき、


彼が父に敬意を表するために名前をとったと

現在一般的に思われている。



後にその同じ年に彼はメンフィス・スリムの

名前で活動を始めたが、

彼はピーター・チャトマンの名前で

曲の発表を続けた。



彼は1930年代の大半をウェスト・メンフィス、

アーカンソーと南東ミズーリの

ホンキートンク(ミュージック・バー)、


ダンスホールそして

ギャンブル・ジョイントでの活動に費やした。





彼は1939年にシカゴに住みついて、

間もなくクラブでBig Bill Broonzy

チームを組んだ。




(Big Bill Broonzy)




1940と1941年に、彼は Bluebird Records用に

2曲録音をした。"Beer Drinking Woman,"

 "Grinder Man Blues

彼の数十年間のレパートリーの一部になった。




これらは「メンフィス・スリム」の

名前でリリースされた。

そして、ブルーバードのプロデュサー

(Lester Melrose)によって彼に与えられた。



スリムはブルーバードのためのレギュラー・

セッション・ミュージシャンになった。



そして、彼のピアノ才能は既定のスター、

例えばJohn Lee "Sonny Boy" Williamson,





("Sonny Boy" Williamson)





 Washboard Sam, そして Jazz Gillumを

サポートした。




 (Washboard Sam)






(Jazz Gillum)





1940年代中頃までのスリムの録音の多くと

パフォーマンスはギタリストと

歌手のBroonzyと一緒だった。


Broonzyは1940年のJoshua Altheimerの

亡くなった後にピアニストのスリムを

加えた。




第二次世界大戦の後、スリムはバンドを

リードし始めた。



聴衆の人気のあるジャンプ-ブルーズ、

サックスホーン、ベース、ドラムそして

ピアノを一般に含んだ要望に応えたのだった。




メジャー(レーベル)によるブルーズ録音の

衰退の中で、スリムは新生の独立した

レーベルで働いた。




1945年後半に始まって、彼は

小さなシカゴに拠点を置く

 レーベル Hy-Toneの為に録音をした。




アルト・サクソホン、テナー・サックス、

ピアノとコントラバス(Willie Dixon は、

初のセッションで楽器を演奏した。)の

ラインアップで、




(Willie Dixon)




彼は1946年の秋に、Miracleレーベルと

契約した。



最初の曲は最初のセッション威勢のいいブギー

"Rockin' the House,"

で録音された。


彼のバンドはそこから名前を取った。







スリムと the House Rockersは主に

1949年までMiracleのために録音して、

商業的な成功を楽しんだ。





 彼らが録音した歌の一つで

"Messin' Around"

1948年のR&Bチャート・No1

そして"Harlem Bound."





1947年に、その翌日、ニューヨーク市の

Town HallでSlim, BroonzyそしてWilliamson

とでコンサートをして、


民俗学者Alan Lomaxはデッカ・スタジオに

3人の音楽家を連れてきて、

スリムのヴォーカルとピアノを録音した。




Lomaxは The Art of the Negro

「黒人のアート」というタイトルの

ドキュメンタリーとして

1950年代初期にBBCラジオで



この録音のセクションを発表して、

後で拡張されたバージョンを

「the LP Blues in the Mississippi

 Night.」 としてリリースした。




(「the LP Blues in the Mississippi Night.」




1949年にスリムはドラマーを

加入するコトで彼のコンボは拡張された。




グループは今ツアーに

大部分の時間を過ごしていた。


そして、ヒューストンでPeacock、

シンシナティでKingのために

オフ契約の録音セッションを進めていた。




1947年にMiracle用に録音された

スリムの曲の一つは1949年にリリースされた、

オリジナル・タイトルは"Nobody Loves Me"

だった。



それが"Every Day I Have the Blues.”

として

有名になった。





その曲は1950年に Lowell Fulsonによって




(Lowell Fulson)




そしてその後B. B. King, Elmore James,

Ray Charles, Eric Clapton, Natalie Cole,

Ella Fitzgerald, Jimi Hendrix,





(Jimi Hendrix)




Mahalia Jackson, Sarah Vaughan,

Carlos Santana, John Mayer




(John Mayer )




そして Lou Rawlsを含む




(Lou Rawls)




多くのアーティスト立ちによって録音された。






 Joe Williamsはチェッカーのために

1952年にそれを録音した。




彼の1956年(Count Basie Swings,

Joe Williams Singsを含む)からの再制作は

1992年のthe Grammy Hall of Fame

「グラミー栄誉」の殿堂入りをした。




(Joe Williams)




1950年の初期に、Miracleは財政難に屈した。

しかし、その所有者はPremiumレーベルを

つくるために再編成した。


そしてスリムは後継者会社が1951年の

夏に息詰まるまでボード(会社)に残っていた。




Premiumのための彼の1951年2月の

セッションは、the House Rockers' の

2つの変化を見せた。



スリムはスリムはアルトとテノールの

組合せの代わりに2つのテノール・

サックスフォンを使い始めた。




そして、彼はギタリスト・ Ike Perkins

を加えてみた。


Premiumのための彼の最後のセッションは、

2テノール・ラインアップを保ったが、

ギターを不要とした。





Premiumによる彼の時間の間、スリムは最初、

彼の歌 "Mother Earth"「母なる大地」

を録音した。







スリムは King用にちょうど

1つのセッションを作った。



それは1950年に失敗した後、

同社は1948年に彼のHy-Toneの権利を買い取って、

彼のMiracleの権利を取得した。



彼はChessのアーティストではなかった。

しかしLeonard Chessは問題が起きた後の

ほとんどの Premiumの権利を買ったのだった。





 Mercury Recordsによる1年の後、

スリムはシカゴでUnited Recordsと契約した。


the A&R man, Lew Simpkinsは

MiracleとPremiumから彼を知っていた。

タイミングは吉兆だった。




それは彼がちょうど今

Matt "Guitar" Murphy

を彼のグループに加入させたからだ。




(Matt "Guitar" Murphy)




彼は1954年の末を通してユナイテッドに

残されていた。


それは同社がブルーズの録音を

減らし始めた時だった。




レコード会社とのスリムの次の安定した関係は

1958年まで待たなければなかった。

それは彼がヴィー-ジェイによって

迎えられた時だった。





1959年に、彼のバンドは

Matt "Guitar" Murphyを出演させて

LP Memphis Slim at the Gate of the Horn

をカットした。




(LP Memphis Slim at the Gate of the Horn)




それは"Mother Earth,"

"Gotta Find My Baby,"

 "Rockin' the Blues,"


'Steppin' Out,"

そして"Slim's Blues."を含んだ


彼のベストのラインアップを

特徴としていた。





スリムは初めて1960年にアメリカ合衆国の

外に出現した。

Willie Dixonとのツアーだった。





1960年代と1970年代にヨーロッパに

多くの著名なブルース・アーティストを

連れてきたディクソンと

プロモーター・ Willie Dixonによって



組織されるアメリカのFolk Festivalコンサートの

シリーズの最初の主演のアーティストとして、

彼は1962年にヨーロッパに戻った。




1962年に、デュオは、Folkways Recordsで

一緒にいくつかのアルバムを発売した。


それはPete Seegerとthe ヴィレッジ・ゲートにて

Memphis SlimとWillie Dixonを含んでいた。




(Pete Seeger)




その同じ年彼は永久にパリへ移った。

彼のと魅力的な人柄 そして演奏、

歌、演出に磨きをかけた。


そしてブルーズについての

ストーリ-テリングは

最も著名なブルース・アーティストとして

ほぼ30年の間彼の職を得た。




彼は多数のヨーロッパ諸国にテレビに出演して、

いくつかのフランスの映画で演じて、

他人のために音楽を書いて、

パリで、ヨーロッパ中で、


そして、アメリカ合衆国への

再度の訪問を定期的に行った。





彼の人生の最後の年には、

彼は尊敬するジャズ・ドラマー・

 George Collierに協力した。



2人は一緒にヨーロッパを旅行して、

友人になった。


コリアーが1987年8月に亡くなったあと、

スリムはほとんど人前へ現れなかった。



彼が亡くなる2年前に、

スリムはフランス共和国の文化省による

the Ordre des Arts et des Lettres

「学問と芸術の勲位」

の司令官と命名された。


それに加えて米国議会はスリムに

Ambassador-at-Large of Good Will

「大いなる善意の大使」のタイトルの

栄誉を与えた。




メンフィス・スリムは1988年2月24日

フランスのパリで腎不全のため亡くなった。

72歳だった。


彼はテネシー州メンフィスの

ガリラヤ記念庭に葬られた。




(PETER CHATMAN :MEMPHIS SLIMのお墓)



1989年、彼は死後にthe Blues Hall of Fame

「ブルーズ栄誉の殿堂」入りをした。



            (ウィキペディアより抜粋)


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