◆誇(ほこ)りの報酬(ほうしゅう)♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<復活の狼煙(のろし)はあがった!>>





FBIに何度も呼び出しを受けて、

偽証を迫られたり、



左翼や右翼には

目の敵(かたき)にされて、



レコーディング契約や

ラジオ・ショーの出演を失うなど


音楽シーンからも干(ほ)されてしまい、


米国でのテレビ出演も禁止。




ハリウッドでの活動は

ブラックリストに

載せられてしまいました。





そんな1940年代後半~1950年代は

彼にとって

苦行の年代と言って良いかと

思われます。





「それでも彼の音楽シーンでの活動に

大学生当時に大いに鼓舞されて、

後にアメリカ合衆国の

大統領にまでなった方とか。」






そうです。





「右翼または左翼から政治的圧力を

恐れずに彼にレコーディングする

そのチャンスを与えてくれた方とか・・・。」






そうです。





「その他にも多くの支持された方々に

ヘルプを受けて復活したのでしたネ!」










そうですネ!






「それからの彼の活動は

どうだったのでしょうか?」






もちろん精力的に活動しています。





彼は主にコンサート・ホール、

ナイトクラブと


フォーク・ミュージック会場、




そして世界中のフェスティバル

で演奏しました。





カナダの首相やアメリカ大統領の

就任式に招かれたり、



テレビ出演もしました。







そして彼のギターのテクニックを

まとめた本の編集にも携わりました。




その本は最初のブルース・ギター

使用説明書だったそうです。




(The Josh White Guitar Method
 (Boosey & Hawkes) in 1956)






「それは凄いですネ!」






彼はブロードウェーや

ハリウッド映画のスターの中で

初の黒人の歌手-ギタリストでした。



ホワイトハウスで

黒人初のパフォーマンスを

行ったのも彼でした。




アメリカでの最初のソロ・ツアー・

コンサートをしたのも彼。




しかもそのコンサートで

白人女性とのコラボをしたのも

有色人種では彼が初でした。







「このブルース・ギター

使用説明書の主筆で、

またまた先駆者としての

彼の姿が浮き彫りにされましたネ!」






そうですね。





彼も最後の人生を燃焼すべく活躍したいと

思ったでしょうネ!








「それはそうですとも・・・。」





「・・・?」






「ちょっと待って下さい。



「今、最後の人生っておっしゃいましたか?」







そうです。





実は彼は1969年に亡くなって


しまいました。







「それはお気の毒に・・・。」





「1963年のブラックリストから外れて

以来ですから約6年間でしたか・・・。」






彼は亡くなる

その1ヶ月前にもカナダのTVの

バラエティー・ショーに出演していたのです。





「それだけご活躍したのであれば

ご家族の皆さんも本望だったのでは

ないでしょうか?」








<<ジョッシュ・ホワイト続く>>


今回も引き続き

ジョッシュ・ホワイトのお話しです。




(今回も引き続き
ジョッシュ・ホワイトのお話しです。)






ところが彼が亡くなった後も

彼の妻キャロルの



心の中の蟠(わだかま)りは

まだ解けてはいない様でした。





「と、言いますと。」





心の中の蟠(わだかま)りは、


傍(はた)から見ていても

よく分からないモノである場合が


往々にしてあります。





「そうですね。」





特に自立心が旺盛で

自身の生き方に誇りを持って

いらっしゃる方でしたら


尚更(なおさら)ではないでしょうか?





「そうですね。」






彼は慢性的な疾患を抱えており、

さらに進行性の心臓病を患っていて、



その彼の死を早めたのも、



彼に対する様々なストレスが、

少なからず影響されていたのでは

ないでしょうか?





「なるほど」






1961年くらいから亡くなるまで

心臓発作を3回起こしたそうです。





「そうですか」



「日に日に弱ってゆく身内の姿を

見るのは、

それは相当にお辛かったでしょうに・・。」






実は彼はベッドの中では

亡くなっていません。





「それはどう言うコトでしょうか?」






彼は最後の試みに行った

手術の失敗をキッカケに

亡くなりました。






「そうだったのですか。

それならご家族の方たちも

やり場なく・・・。」



「さぞ、お辛かったでしょうネ!」







そうですね。





「あの・・・・。」



「このままでは・・・。」



「つまり、その・・・。

彼女やご家族の皆さんたちの


心の中の蟠(わだかま)りは、



そのまま解消されないまま

なのではないでしょか?」








そうですね。




ところがそこに転機がやってきます。





「と言いますと・・・!」






1998年に

彼の妻のキャロルは

米国郵政公社が

彼自身の郵便切手を発行したコトで



国がホワイトに対して

敬意を表している

その最終的な確証を得たのです。









「OH!それはスゴイですネ!」






それは、

彼の地所マネージャーから

ホワイトの原寸大の切手を

見せられたときでした。





「OOOH!!」






彼女は1947年より

マッカーシー時代から、



それはそれまでの彼のキャリアを

バラバラにされて、

非常に苦しく社会的にも

隔離された年でしたが、





「ハイ!」




その朗報と共に歓喜して、

それを伝えてくれたコト、



そして・・・。



何よりも、

彼の功績を認めてくれた国に

対する感謝でしょうか?



そして、彼女は久しく待ち望んでいた、

充足感を表したそうです。



「彼自身そして愛する家族共に

彼の名前はその誇りを

51年ぶりに、

よう~やく取り戻したワケですネ!」







☆Josh White - The Riddle (I Gave My Love a Cherry)

(The Walking Hills, 1949) ♪



☆Josh White - I'm Gonna Move To The Outskirts of Town♪   


☆Josh White: He Never Said A Mumblin' Word (1956) ♪

☆Josh White - Lonesome Road♪




☆ジョッシュ・ホワイト  JOSH WHITE


本名:ジョシュア・ダニエル・ホワイト


(1914年2月11日- 1969年9月6日)




ジョッシュ・ホワイトでよく知られる。

アメリカの歌手、ギタリスト、ソングライター、

俳優と市民権活動家だった。




1930年代に彼はまた"Pinewood Tom" と

"Tippy Barton"の名前で録音した。





ホワイトはJim Crow Southで育った。

1920年代と1930年代の間に彼は

著名なレース・レコード・アーティストになった。




それはピエモンテ・ブルース、カントリー・ブルース、

ゴスペルと社会的抗議歌を含むジャンルの録音を

多く生み出した。





1931年に、ホワイトはニューヨークへ引っ越した。

そして、10年以内に、彼の名声は大きくく広がった。





彼のレパートリーは、アーバンブルース、ジャズ、

伝統的なフォークソングと政治的な抗議歌を

含むために拡大していった。




彼は、ラジオ、ブロードウェーと

映画俳優として、すぐに売れっ子になった。





ホワイトはまた大統領フランクリン・D・

ルーズベルトへの親友で、最も親しいアフリカ系

アメリカ人の友人になった。




(フランクリン・D・ルーズベルト)




ホワイトの反人種隔離主義者と

国際的な人権政治的な姿勢は

沢山の彼の録音や講演で表現された。





それらは彼を共産党員とみなしている

右翼のマッカーシー主義者に終わらせた。




したがって、1947年から1960年代中頃まで、

ホワイトは反共産主義の

レッド・スケアーに巻き込まれた。



そこから彼の名前を消去しようとした結果、

彼のキャリアは損害を受けた。






ホワイトの音楽スタイルは、音楽アーティストの

多くの将来の世代に影響を与えた。


 Blind Boy Fuller, Brownie McGhee, Pete Seeger,

Lena Horne, Nat King Cole, Harry Belafonte,

 Lonnie Donegan, Eartha Kitt, Alexis Korner,




 

   (Alexis Korner)




 Odetta, Elvis Presley, The Kingston Trio,

 the Clancy Brothers and Tommy Makem,

Merle Travis, Dave Van Ronk, Peter,




(Dave Van Ronk)




Paul and Mary, Bob Dylan, Eric Weissberg,

Judy Collins, Mike Bloomfield, Danny Kalb,




(Danny Kalb)




Roger McGuinn, David Crosby, Richie Havens,

Don McLean, Roy Harper, Ry Cooder, John Fogerty,

Eva Cassidy そしてJack Whiteを含む。




(John Fogerty)





☆最初の試み



ホワイトは多くの意味で先駆者だった。



1930年代初期の人気のカントリー・ブルーズマンで、


1940年代にはフォーク・ブルーズへ、


ブルードウェーやハリウッド映画のスターの

中で初の黒人の歌手-ギタリストで、


多くの白人のファンにもたらした責任がある。





その一方で彼は公民権運動の歌で有名だった。

そしてそれは彼をルーズベルトのお気に入りに、



その他、(最初の黒人男性アーティストとして)

彼をステージでのセクシーな人物にした。






1941年彼はホワイトハウス・コマンド・

パフォーマンスが与える

初の黒人アーティストだった。

1942年以前に分離されたホテルで演奏した。



1944年"One Meatball"のレコード、

100万枚を売り上げた。



1945年最初のアメリカでのソロ・ツアー・

コンサートをした。





ナイトクラブでの演奏では

最初のフォーークとブルーズ・アーティスト、

国際的なツアーも最初で、

 Lead BellyやWoody Guthrieと一緒に

最初の米国郵便料金切手を受賞した。




(Lead Belly)





Woody Guthrie)





ホワイトとLibby Holmanは最初の混血の

男性そして女性アーティストになった。




(Libby Holman)




共に録音し一緒のツアーでは

早い段階でアメリカ合衆国の全域で

会場を分けた。




彼らは次の6年間時々演奏を続けた、

その間、一枚のアルバムと

ひとつのフィルムを一緒に撮った。








☆キャリア



<その後の人生>


1950年代中頃から1969年のニューヨーク、

マンハセットで心臓病によって

彼が亡くなるまで、


ホワイトは主にコンサート・ホール、

ナイトクラブとフォーク・ミュージック

会場、そして世界中のフェスティバル

で演奏した。




そして、1961年のフェスティバルは

イギリスのグラナダ・テレビ・

ネットワークのために

ジョシュ・ホワイト・ショーできらめいた。





ジョン・F・ケネディ大統領が




(ジョン・F・ケネディ)




国家CBS Televisionのシビル・スペシャルの

「大統領と一緒の夕食」に出演に

彼を誘ったとき、ホワイトの名前が


アメリカのテレビ産業で

ブラックリストに記載することが

1963年にようやく解かれていた。





その年の後半、彼はワシントンでの

ヒストリカル・マーチ(歴史的な5月)で


リンカーン・メモリアルのステップの上、

大勢の人たちための全国テレビ興行の中で

再びその姿をみせた。





1964年に、ホワイトはカナダ

(レスター・ピアソン)首相のために、

天覧興行を行った。




(レスター・ピアソン)




そして、1965年1月に、彼は

リンドン・ジョンソンの大統領の

就任式で演奏した。




(リンドン・ジョンソン)




彼の最後の年には、その中に、

彼はMerv Griffin Show、

ヒュー・ヘフナーのプレイボーイとペントハウス

そしてHootenannyのアメリカのテレビ出演をした。




一方、彼は1962年と1967年に全国スウェーデンの

テレビのために2つのジョシュ・ホワイト・

コンサート・スペシャルで主演した。




1965年のITV Network Special Heart Songで主演した。

:イギリスでジョシュ・ホワイトは

(ゲスト出演者ジュリー・フェリクスと

アレクシス・ケルナー)




(ジュリー・フェリクス)




1967年にオスカー・ブランドとカナダの

CBC-テレビのLetのSing Outの上でゲスト出演




そして、1969年5月にカナダの

CBC-テレビ・バラエティーショー

One More Timeが彼の最終的なテレビ出演になった。





英国ギタリスト/企業家のIvor Mairantsは




(Ivor Mairants)





1956年にジョシュ・ホワイト・ギター・メッソッド

 (Boosey & Hawkes)を創るためにホワイトと働いた。




それは未熟な英国のブルース/人々シーンのための

とても影響力のある本で、

これまでに出版される最初のブルース・ギター

使用説明書だった。




英国ギタリストJohn Renbournと




(John Renbourn)




アメリカのギタリストStefan Grossman



(Stefan Grossman)





(その時に英国に住んでいた)は、

それを彼らがプレイに対する

必要不可欠な影響を与えたと言う。







<死>


1961年に、

彼が3回の心臓発作の初回と


最後の8年の間彼を悩ます

進行性の心臓病を経験した。



それからホワイトの身体は

急速に衰えていった。




生涯の喫煙者として彼はまた

進行性の気腫を患っていた。



彼の身体はカルシウム欠乏と

手のひどい乾癬と

潰瘍も患っていた。



あらゆるコンサートで出血して

指の爪が割れ、そして彼の爪が

身体から剥がれる原因になった。








彼の人生の最後の2年の間に、

彼の心臓は劇的に弱まった。



彼が各々の2週間のコンサートツアーを

完了したあと、

彼の妻キャロルは4週間彼を病院に入れた。





最後に、医者は、

彼の唯一のサバイバル・オプションが

心臓弁を取り替える、

新しい手順を試みることを感じた。



手術は失敗した。






彼は、1969年9月6日にニューヨーク、

マンセットのNorth Shore Hospital

の手術台の上で亡くなった。








AP通信が、ホワイトの死に学ぶと題して

Harry Belafonteに対談したとき、

彼は言った。




(Harry Belafonte)




「私は、どれくらい悲しいかについて、

あなたに話すことができません。


私は、躍進する年に、

彼と多くの、多くの時間を過ごしました。




彼には、私のスタイルに対する

重大な影響がありました。


その時に、私はやって来ました。

彼はただ一人の人気の黒人の

フォークシンガーでした。



そして、終わりまで、彼の芸術的手腕は

他のどのアーティストも歌わなかった


黒人の人々の生命と状況について

豊かな材料をアメリカに露見させました。」









<私生活>



1933年、ホワイトは

ニューヨーク・ゴスペル歌手

( Carol Carr)と結婚した。




彼らは、Blondell(Bunny)、

ジュリアン(Beverly)、

ジョシュJr.、キャロリン(Fern)、



ジュディと養い子(Delores)を

ハーレム(ニューヨーク)

のSugar Hill 地域の家で育てた。






ホワイトの弟ビリー

(グリーンヴィルから移住した)

とキャロルの母は、

ホワイト家庭で彼らと一緒にずっと暮らした。





彼の父は、1930年

(10年早くグリーンヴィルの

代理として殴られた結果)に、

サウスカロライナ精神病院で亡くなった。





彼の母、Daisy Elizabeth

(非常に厳しくて宗教的な女性)は、

グリーンヴィル(サウスカロライナ)の

彼女の故郷の中に残って、80代まで生きた。






彼女はニューヨークでホワイトを

1年につき数回訪ねに来た。


そして、彼はサウスカロライナで

彼女に会うために旅行した。





しかし、彼女は家で彼の非宗教的な

録音を許さなかった。





1920年代の彼女のグリーンヴィル教会の

彼の幼い頃のパフォーマンスを除いて、

彼女は息子が行うのを決して二度と見なかった。




そして、彼が非聖歌を歌ったコンサートに

出席することを拒否した。






彼の兄弟ビリーと(将来の市民権リーダー)

Bayard Rustin, Sam GaryとCarrington Lewis は、




(Bayard Rustin)




演奏して、 "Josh White and His Carolinians"

(1939から1940年まで)でホワイトと録音し、



ブロードウェー・ミュージカル・John Henryで

彼と出演した。






第二次世界大戦の後、

ビリーはエリノア・ルーズベルトの

残りの人生のために

彼女の住宅マネージャーと運転手になった。





1940年代初期の出来事に、

祖母が子供たちを見たとき、キャロルは歌って、

演奏して、フォーク・コラボレイテッド・

グループ(Almanac Singers)とともに

録音することでホワイトに加わった。




(Almanac Singers)




1950年代と1960年代初期後期に、

キャロルはエリノア・ルーズベルトの

テレビ・トークショーのゲストとして出演した。


そして、1982年に、彼女はフランクリンDの

スミソニアン協会の第100回の

Anniversary Celebrationの講演者だった。






ワシントンでのルーズベルトの誕生日に

彼女の息子(Josh White Jr.)が




(Josh White Jr.)





彼の父が彼のホワイトハウスでの

天覧興行の一つで発表した

歌の音楽のプログラムを演奏した。






ジョシュ・ホワイト, Jr.は

2本のブロードウェーで

彼と共に演奏することに加えて



1944から1961へのデュエットとして

彼の父と演奏されて、録音された)

過去60年の間、

成功したシンガーソングライター、

ギタリスト、俳優、教育者と

社交的な活動家だった。





(ジョシュ・ホワイト, Jr.は

How Long Till Summerのために演奏して、

1949年のトニー賞を獲得した。)




1950年代と1960年代にいろいろな時に、

娘Beverly,、FernとJudyも演奏て、録音して、

ホワイトとラジオとテレビに出演した。





1964年に、新しい反人種分離主義法律が

アフリカ系アメリカ人が白人だけの地域で

不動産を購入することを以前より緩和されたので、


ジョシュとキャロルはローズデール

(ニューヨーク市のクイーンズ地域)で

上下2階構造の家を買った。






娘Beverly と彼女の家族が二階で生活している間、

カップルは一階の家に住んでいた。



ホワイトは彼の残りの人生のために

この半郊外のライフスタイルで生活した。





妻キャロルは、

1998年の彼女の急逝まで

80代に、最初に衣類ブティック・

マネージャとして、


そして、療養所のお年寄りへの

ソーシャル・ワーカーとして働き続ける間、

そこで生活し続けた。







彼女の致命的な心臓発作の

1週間前に、キャロルは、



米国郵政公社が

彼自身の郵便切手で1998年に

ホワイトに敬意を表している

最終的な確証を受けた。





地所マネージャーのDouglas Yeagerから

ジョシュの原寸大の切手を見せられたとき、




(ジョシュの原寸大の切手)




彼女はマッカーシー時代から

それは結局それらの苦しい社会的な隔離された年

ー喜び、感謝と久しく待ち望んでいた、充足感―

を表した。





ジョシュは最終的に彼に相応しい認知を

受けるコトになる。



彼女は、静かにようやくその時を

迎えられるのを感じた。



(Josh whiteのサイン)




[上記の情報はジョシュ・ホワイト(卿)

(ダグラス・イーガー)の地所マネージャーと

ジョシュ・ホワイト・アーカイブの伝記作者

によって編集された。]




            (ウィキペディアより抜粋)



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