◆ミュージック環境はセンスを育(はぐ)む♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。



<<即興詩人を母に持つ、元プロボクサー>>




”生まれた環境が、そのヒトの

その後の人生に大きく影響を与える。”




その様なコトバを聞いたコトがあります。







「そう言えばワタシも、

”私にアナタの子供を任せてもらえれば、

お子さんをアナタの望む人間に育てますよ。」





「そう言うお話しを

聞いたコトがあります。」








「それは結局、アナタ(親)が

将来の子供に望む環境の中で育てますよ。

と言うコトなのですがネ!」










今回ご紹介するブルーズ・マンも


環境の影響をカナリ!受けた方でしょう。






「ホウ!どの様な?」






お母さんが、一風変わったクセがありまして、





「ハイ!」






その眼にとまったモノを

ご自身のセンスとインスピレーションを

使って、即興の詩にして

それを暗唱してしまうのだそうです。






「なかなかのクセをお持ちで、



それですと、


家の中は一日中

ミュージカル劇場ような

雰囲気なのでしょうね!」







(家の中は一日中ミュージカル劇場ような
雰囲気なのでしょうね!)





お母さんがそうですと、



おそらく・・・。


お子さん影響を少なからず受けます。





「フム、フム・・・。」





彼は14人兄弟ですから、







「そうしますと。

目に付くモノを

詩にして暗唱するであろうキャストが、


少なくとも15名は・・・。



お父さんを含めますと

16名ですか?



いるコトになりますネ!」








大変賑やかな家庭では

なかったのではないでしょうか?







「第3者から見ますと、

これは、かなりシュールな家庭環境である

印象を受けるかと思いますよ。」






ちょっと誇張して感もありますが、^^



その様な家庭で育ちましたので、

作曲やリズムなどのセンスが


幼い頃から育っていったのではないかと

思われます。







「なるほど。」






それから7歳にはピアノ演奏に感銘を受けて





「OH!」




10歳の頃には地元のバンドのための

作曲なども手がけました。





「なかなかですね。」





そして地元ラジオの番組で

ゴスペル・カルテットとして

歌も歌っていたそうです。






「やはりお母さんの影響が

効果を現したと言うワケですね。」







でも彼は音楽としての活動を

本格的に始める前に

やりたいコトがあったのです。






「ホウ!それは何でしょうか?」






ボクサーです。





「ボクサーって?」




「あの~。狭いリングの中で、

2人でボコボコに殴り合う。

拳闘(けんとう)のコトですか?」






かなり古い言い回しをご存知ですネ!

ですが、その通りです。








「それは観客を熱狂させる

と言う意味では

同じかもしれませんが、

かなりカラダの負担をかける職業ですね。」







そうですね。


それでもかなりセンスは良かった様で、



1年後には、新人ボクサーとして、

イリノイ州のゴールデン・グローヴス・へヴィー級

チャンピオンになっていたそうで、



あの*ジョー・ルイスと

スパーリングをする程だったそうです。









*ジョー・ルイスとは?

(1914年-1981年)

ジョー・ルイス(ジョセフ・ルイス・バロー)

ニックネームは

「褐色の爆撃機(The Brown Bomber)」。

11年間の王座在位中に、全階級通じて最多防衛記録

である元ボクシング世界ヘビー級王座25連続防衛の

記録保持者であり、現在もこの記録は破られていない。








「それは凄いセンス!そして実力です。」





天性のリズム感がエッジ(優位性)を

持たせたのかもしれませんネ!






「お母さん!

アナタの与えたくれた環境に感謝します。

でしょうか?」





そのブロ・ボクサーとしてのキャリアは

4戦にして終わりを告げてしまいます。






「それはどうしてでしょうか?」






どうもボクシング委員会で、

金銭面についてマネージャーと口論になった

そうなのです。






「ボクサーとしてリングの上での決着なら

まだ納得がいったかとは思いますが・・・。」





そうですね。彼としても、

どうもやり切れない気持ちだったろう

とは思います。




でも、このことをキッカケにして、

彼は音楽活動へと大きく舵(かじ)をとります。







<<ウィリー・ディクソン登場!>>




今回ご紹介するブルーズ・マンは

ウィリー・ディクソンです。




(今回ご紹介するブルーズ・マンは
ウィリー・ディクソンです。



マディ・ウォーターズの

「フーチー・クーチー・マン」



「アイ・ジャスト・ウォント・トゥ・メイク・ラヴ・トゥ・ユー」





ハウリン・ウルフの

「ザ・レッド・ルースター」


「スプーンフル」





サニー・ボーイ・ウィリアムスンIIの

「ブリング・イット・オン・ホーム」





ソングライターとしてブルーズ、

そして後のロックにも影響を与えた

歴史に残る名曲を数々書いています。





それだけではなく一流のセッションマン

として、他のアーティストのレコーディングや

ツアーにも参加をしていますが、




ソロのレコーディングとしての成功は

それらに比較すると収めなかったと

言われています。





「このパワフルな声は

まさにシカゴ・ブルーズですね。」





戦後のシカゴ・ブルーズのカタチを

作った重要人物は彼とマディーである

と言われています。




「この圧倒的な存在感。

この迫力。男でありながら

いや~っ!シビレますネ!」





☆Willie Dixon - Bassology ♪



☆Willie Dixon - I can't quit you, baby ♪  


☆Willie Dixon - You Shook Me ♪


☆Willie Dixon - Back door man♪





☆ウィリー・ディクソン WILLIE DIXON

本名:ウィリー・ジェームス・ディクソン


 (1915年7月1日 - 1992年1月29日)


アメリカ合衆国ミシシッピ州ヴィックスバーグ

生まれのソングライター、プロデューサー、

ベーシスト、歌手。ブルース界を影で支えてきた男。





Willie DixonとMuddy Waters

戦後のシカゴ・ブルースを形成した

最重要人物2人と言えるだろう。




(Muddy Waters)




Watersの"Hoochie Coochie Man"



"I Just Want to Make Love to You"

といった

古典的名作は、Dixonが書いたものだ。






彼は、Little Walterの名曲 "My Babe"




(Little Walter)




Sonny Boy Williamson Ⅱ

(Rice Miller) のヒット曲




(Sonny Boy Williamson Ⅱ)




"Bring It on Home."

から"Weak Brain, Narrow Mind"




Howlin' Wolfの名曲"Evil,"




(Howlin' Wolf)




 "Spoonful,"

"I Ain't Superstitious,"

"Little Red Rooster,"、

"Back Door Man,"といった

古典的名曲まで多くの曲を書いた。






Willieは、ブルーズとロック&ロールを

結びつける役割も果たした。




彼は、1950年代にChuck Berryの




(Chuck Berry)




多くの曲でプレイし、

l960年代には、彼の作った多くの名曲が、



イギリスやアメリカのブルース・ロック・バンドに

よってカヴァーされた。




Creamの"Spoonful",



(Cream)






Led Zeppelinの


(Led Zeppelin)



"I Can't Quit You Baby"

"You Shook Me"、





Doorsの"Back Door Man"

等がそうだ。



(Doors)




Dixonは、ブルース・アーティストの中でも

最も影響力があり、尊敬される存在と

なっていたのだった。








< 略 歴 >


Willie Dixonnは 1915年 7月 1日

ミシシッピ州ヴィックスバーグ

で 14人の子供たちの 7番目として生まれた。




彼の母親は、目にしたものをすぐに

「詩」にする、という習慣があったらしく、

書いては暗唱していた。


このような環境にいたため、

Dixonは、若い頃に

リズムの仕組みや拍子を身につけた。





7歳のときに Little Brother Montgomery

ピアノ演奏に触れ、それが大きな影響を与えた。



(Little Brother Montgomery)




その彼は 10代に入ってからは

地元のバンドのために曲を書き始め、

それで多少は稼ぎ始めていた。





彼が最初に受けた音楽的影響もまた、

宗教的なものだった。




それは若い頃、彼が一緒に歌っていた

Union Jubilee Singersが、


地元局のVicksburg station WQBCに

自身のラジオ番組を持つ、

ゴスペル・カルテットだったのだからだ。





Dixonは、音楽をやる前は、

プロ・ボクサーになる夢を持っていた。



Dixonは、1936年にミシシッピーを離れ、

シカゴに移る。



その1年後、彼は、新人ボクサーとして、

イリノイ州のゴールデン・グローヴス・へヴィー級

チャンピオンになっていた。




彼は、1度は、あのJoe Louisと

スパーリングをする程だった。





こうした最初の成功にも関わらず、

プロ・ボクサーとしての

キャリアは4戦しか続かなかった。




ボクシング委員会での金銭面での、

マネージャーとの口論によって、

Dixonが描いていた

ボクシング・ドリームは終わりを告げた。






その後すぐに、Dixonはミュージシャン

としてのキャリアをスタートさせた。





1939年、彼は、ベースを演奏し始め、

ギタリストのLeonard "Baby Doo" Castonと共に、

Five Breezesを結成した。




(Five Breezes)




当初は Castonのギターと Dixonのヴォーカルで

街頭に立っていたが、後にはベースも弾き始めた。


そのグループでは Bluebirdへの

8曲の録音も経験。






彼等は、シカゴのクラブでの演奏や2~3の

レコーディングを1941年までやっていた。




自らを、良心的な徴兵忌避者と

言っていたDixonは、




1941年にアメリカの軍隊に

従事することを拒否したため、



シカゴのクラブ、Pink Poodleでの

出演中にステージから拘引され、

そのまま収監された。







Dixonが獄中にいる間、Castonは、

Rhythm Rascalsというトリオを結成し、

太平洋や北アフリカ、ヨーロッパの

無名のクラブで演奏した。





出獄後、Dixonは、新しいグループ

"the Four Jumps of Jive"を結成し、



シカゴのクラブで定期的に演奏し、

1945年には、Mercuryレコードで

レコーディングした。





同年、CastonがChicagoに戻り、

再びDixonのパートナーとなった。





彼等は、ギターリストのBernardo Dennis

(彼は後にOllie Crawfordに変えられた)を加えて

Big Three Trio

として活動するようになった。




(Big Three Trio)





ソフト・ブルースやブギウギ、ポップ、

流行歌といったレパートリーで、

Big Threeは、まずBulletレコードと、


そして、後1947年には

Columbiaレコードと契約を結んだ。





The Big Threeは、1952年まで活動していた。




Big Three Trioとして活動している間、

Dixonは、シカゴ南部のクラブで、

Muddy Watersを始めとするブルース・マン達と

ジャム・セッションも行なった。







そんなジャムの1つ、

Macomba Loungeで行なわれた、

ある晩遅くのことであった。



Dixonは、クラブのオーナーである

PhilとLeonard Chessに出会った。





 (Phil&Leonard Chess)





Chess兄弟は1948年当時、

Chess Recordsを始めていて、

Dixonにレーベルでの

パート・タイムの仕事を依頼した。





彼は、この申し出を受け入れ、

Big Three Trioの解散後は、

フルタイムでChessで働くことになった。





Dixonは、Eddie Boyd

のためにいくつか曲を書き、




(Eddie Boyd)





1953年には彼自身の名義で

Chessから数曲リリースした。





1954年までの間に、Watersは

Dixonの"Hoochie Coochie Man,"を、



Howlin' Wolfは"Evil,"を、



そして、Little Walter & His Jukesは

"Mellow Down Easy,"

を録音し、




(Little Walter & His Jukes)





これにより、Dixonのシカゴ・ブルース界での

名声は高まった。








Dixonが作詞・作曲した

"Hoochie Coochie Man"が、


1954年Muddy Watersの歌で大ヒット

(R&Bチャート 3位)。


以後、ソングライター/プロデューサー、

ベーシストとして手腕を振るう。






Dixonは、セッション・ミュージシャン

としても活動し始めた。




Chessのハウス・バンドで

Waters、Berry、Bo Diddley、




(Bo Diddley)




Little Walter、Jimmy Witherspoon等の

レコーディングでベースを演奏した。



(Jimmy Witherspoon)





Dixonは、Chessで

アレンジやプロデュースも

担当するようになったが、


これは、彼の人気のある作曲の

才能ゆえである。





上述したことに加えて、Dixonは、

ブルースのスタンダード・ナンバーとなった

 "The Seventh Son,"

"Wang Dang Doodle,"

"You Can't Judge a Book by Its Cover,"


といった名曲を作曲した。






Dixonは、ソロでのレコーディングも続けたが、

ソングライターや一流のセッション・マン

として程の成功は収めなかった。





DixonのChessへの在籍期間は、

Cobraレコードで働いた1957年に中断する。





Corbaに在籍した2年間の間に、

Dixonは、1950年代~60年代に

西側のシカゴ・ブルースを築き上げた



この3人のギタリスト、Magic Sam、



(Magic Sam)




Otis Rush、Buddy Guy

達と共に働いた。




(Otis Rush)




(Buddy Guy)




Cobraが倒産すると、Dixonは、Chessに戻り、

1960年代をそこで過ごした。


その間、彼は、American Folk Blues Festival

メンバーとヨーロッパで演奏し、

シカゴ・ブルース・オールスターズを結成した。




それは彼のツアーやレコーディングに

柔軟に対応出来るバンドだ。




1970年代、Dixonは、Ovation、Columbia、

Yamboといったレーベルで、アルバムをリリースし、

定期的にツアーをした。




1980年代にも彼はPausaレーベルで

アルバムをリリースした。


そして、映画のサウンドトラックにも挑戦した。





管弦楽器の音楽を

"The Color of Money"(邦題:ハスラー2)

のために
提供し、



("The Color of Money")





La Bamba(邦題:ラ・バンバ)で



(La Bamba)



Bo Diddleyのヴァージョンの

"Who Do You Love"をプロデュースした。






1980年、Dixonは、ブルースの殿堂入りする。




彼は、その後もアメリカ国内、国外を問わずに、

クラブやフェスティバルでの演奏を続けた。





80年代の初頭にシカゴから

南カリフォルニアへ移住。




1984年にブルースの振興と

ブルース・アーティストの

支援を目的に、

Blues Heaven Foundationを設立。




(Blues Heaven Foundation)




現在でも活動している、

この非営利組織の目的は、ブルース学校や

奨学金提供制度といったプログラムによって、

ブルースを守ろうというものだ。






ディクソンの死後の1993年、彼の遺族が

旧チェス・レコードの建物を買い取り、

ファウンデーションの本部とした。





1988年、彼は、Bug/Capitolと

レコーディング契約を結び、

非常に高い評価を得たアルバム

"Hidden Charms"を発表する。




("Hidden Charms")




1989年には、

自伝「I Am The Blues: The Willie Dixon Story」

 (Don Snowdenと共に書かれた)を出版した。




(「I Am The Blues: The Willie Dixon Story」)





1990年までに、Dixonの病気は進行し、

彼自身が作ったBlues Heaven Foundationでの活動は

続けていたものの、Chicago Blues All-Starsとの

パートでの演奏しか出来なくなっていた。





1992年1月29日、心不全のためカリフォルニア州

バーバンクのセントジョセフ医療センターにて死去した。

76歳だった。




裏方の印象が強いが、自己名義のアルバムも

複数発表している。



特に1981年にレコーディングされた


"It Don't Make Sense (You Can't Make Peace)"


(アルバム「Mighty Earthquake And Hurricane」収録)は、

名作と名高い。




(「Mighty Earthquake And Hurricane」)



             (ウィキペディアより抜粋)


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