※考察なので、ネタバレを含みます。
嫌な人はここで回れ右をしてね。











国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。


あまりにも有名な書き出しの一冊である。

が、なぜか
『トンネルを抜けると【そこは】雪国であった』
と間違われやすい。

本書には【そこは】はない。
『雪国であった』だけだ。



推察するに、なんだけど、この本の主人公の一人である、東京に妻子を持ちながら、この雪深い温泉郷を訪れる作家島村は、ここをもう初めての訪問ではないからだと思う。

【そこは】と書くと、まるで初めてトンネルの向こうが雪景色だったということに気づいたようなニュアンスになる。
汽車がゆくトンネルの手前までは雪は降っていなかったのに、トンネルを抜けた途端、そこに雪が降っていて銀世界であることを知らなかったような。


そう、物語は島村なる人物がこの温泉郷をもう何度か訪れているところから始まる。

(『国境』を「こっきょう」と読むのか「くにざかい」と読むのかは、その意味合いから今も本好きの間で意見が分かれる)

島村がわざわざ汽車でこの温泉郷を訪れるのは、駒子という芸者に会うためだった。

この駒子、もちろん好きで芸者になったわけじゃない。

幼馴染みである行男という人が病で床に就いていて、東京の病院に行かせる、その診療代を稼ぐために東京で芸者に出たのだ、と。
駒子と行男は許婚(いいなずけ)だと、村ではもっぱらの噂だった。
けれど、島村がそれを聞くと駒子は否定する。
行男の母親が駒子のお三味線のお師匠さんで、その母親が行男と駒子が結婚すればいいなと思っていた時期があっただけだというのだ。
じゃあ、なんで行男のために、わざわざ東京で芸者なんかに出たことがあるのか。

島村が初めて彼女に会ったときは、旅館の手伝いなどをしている素人の女に戻っていたのに、だんだんと故郷のこの温泉郷でも芸者に出るようになっていく。
そして、それと比例するかのように、彼女と島村との間柄も濃密になっていく、駒子の考え方や苦労を島村に「徒労だね」と言われながらも。
お座敷の前後に島村が滞在する旅館にやって来ては、酔って話し、笑い、あるときは泣き、甘え、刹那的で切ない、それはガラス細工のような、手折ればすぐ割れるような綱渡りの関係でしかないのに。
「あんた、あたしを笑ってるのね。笑ってるわよ。今は笑っていなくても、いつか笑うわ」
食わんがため、というところか、寒村ならではの悲しい現実がそこにある。
駒子の熱い情熱、雪の冷たい情景の対比が鮮烈だ。


一方、その行男には、いまは葉子という身の回りの世話を焼く女がついていた。
この葉子と駒子の間には行男を巡って一悶着あったと見えるのだが(はっきり描かれておらず、読み手が全体の文面から読み解く手法となっている)、それはこの小説の全体に影を落とす。


物語の始め、島村は東京からの汽車の中で、この葉子と病からがら故郷に帰って来た途中の行男らしき二人に出くわす。
その葉子の様子を島村は汽車の窓越しに鏡のように映るのを見るのだけれども、そこの描写が異様に細かい。
その『悲しいくらい美しい声』の描写も。
なぜだ、川端、と最初に読んだときは思った。
いまの年齢になったあたしが読むと、これはその後の葉子と駒子の対比への序章、比喩かと見える。
(本編に触れすぎるため、この辺りでこの話は止めておくね)

そして、それを葉子がいると知らずに駅に迎えに出ていた駒子をもまた、島村は見かけるのである。

かいがいしく世話をする葉子といる行男を見て、角巻の駒子はそのまま声をかけることなく立ち去るのだ。
ここでもう駒子がなぜ行男のために芸者にまでなったのかがわかる気がする。


それなのに、駒子は島村との一年に一度の束の間の逢瀬を心の支えにしているように見える体(てい)で、物語は進んでゆく。
川端文学独特の『行間にドラマあり』といわれる美しい描写と共に、二人の行き場のない恋は行き場のないままだ。
まるで、その行間を読めとでもいうように。
自分に執着するようになっていく駒子を次第に疎ましくなる島村。
実に勝手な男である。
ま、男なんて、そんな人多いけどね。


ある日、島村が東京に帰るのを送っていく道々の駒子に葉子が慌てた様子で声をかける。
行男が危篤だから、行男が駒子を呼んでいる、すぐに帰って会って欲しい、と。
しかし、駒子は頑なまでに行こうとしない。
「お客さまを送って行っているのだから、私帰れないわ」
と言って、すがる葉子を無理矢理行男のところに帰らせる。
島村は駒子に行男の臨終に立ち会うよう勧めるが、頑として動かぬ駒子の心情は、はたして。



島村は駒子の想いが一身に自分に向けられていると考えている。
そして、そろそろ飽きてきて別れの気配も感じている。

けれど、だ。


あたし個人は、駒子が本当に島村に心底惚れているのかどうか怪しいと思うのである。
本当は島村のことなんか好きじゃなくて、やっぱり彼女の心の中に住むのは行男なんじゃないのか。
わざと行男のお墓参りに行かなかったり、なんとなく葉子を下に見ていたり、その言葉や素振りに、ちょっと見は島村を慕っているように見える心の奥に住んでいるのは島村ではなく行男ではないか。
そう思わせるのは、これもまた、川端文学の成せる技かもしれない。



昨年、NHK−BSが高橋一生✕奈緒で、この作品をドラマ化した。
雪国の実写化は少なく、あたしが原作読後、何年も前に見た池部良✕岸恵子のモノクロ映画『雪国』は、岸恵子の駒子がキーキーうるさいわがままな女に描かれていて(単に岸恵子の演技が下手だったのかもしれないが)、そればかりが印象に残ったという感想だった。

けれど、先日観た高橋一生版は台詞も設定も原作にかなり忠実で、ぷつりと物足りなく途切れるように終わる作品の最後を視聴者用に少し書き足した感じの、また高橋版島村は退廃的で打算的、奈緒版駒子もその悲しみを秘めた妙な熱いはしゃぎぶりと相反する彼女の持つ闇の表現が双方とても素晴らしく、学生時代に文学部だった頃以来、原作をもう一度読みたいという気にさせてくれた。

まだ二十歳くらいだった頃に初めて読んだこの作品は、なんというか…
当時は、島村という男のずるさや小賢しさばかりが目について、自分の母の過去20年にも及ぶ不貞を経験している身としては、この不倫を絶対的に否定するけしからん作品だったのだけど、母を赦し、大人になった自分が読んでみると、島村のずるさよりも駒子という女の悲しさが深く伝わってくる気がした。

想い人だった行男は、どういう経緯なのか描かれていないが、おそらく駒子が東京で彼の診療費を捻出するために芸者に出ている間に葉子に横取りでもされたか。

雪が降れば何もかもを埋め尽くしてしまう、何も楽しいこともない寒村で、行きずりの客の相手をしながら島村の年に一度の訪問をじっと待っている、そして島村に会えば明るく振る舞おうとするその影のある様子、凍りついた心を抱えて、それでも誰かの温もりを探す孤独な女の悲しさ辛さ寂しさが、屋根から下がっていると描写されているつららのように、冷たく、そして鋭く、読み手の心に突き刺さってくる。
島村に「君はいい子だね」と言われて、ただ都合のいい女にされていただけだと気づく彼女の悔しさ、哀しさ。
「ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから。」
切ない。


ノーベル文学賞…
他の川端作品も何点も秀作はあるけれど、その中でもこの『雪国』は、やはり世界が認める美しさだよね、という感じ。

美しい、でも悲しい。
悲しい者たちの物語だ。
帰る場所があるのは、島村だけなのだ。


終盤、物語は思いもよらぬ展開となっていくのだが、肝心のその後のことが描かれておらず、あとは読者がエンディングを決めなくてはいけない。
最初に観たモノクロ映画の『雪国』には大胆な監督独自の視点から付け足された部分があった。
高橋一生版にはそれがなく、ただ島村が歩いてトンネルを帰るシーンで終わっていた。

純文学って、そういうものなんだよね。
今の時代の本みたいに、きちんと結末を結んでいないというか、わざと余白を残してあるというか。

読み手に読解力があった時代の小説だから、ここからはそれぞれの結末を一人一人考えて欲しいと言われているようで。


島村と駒子は別れたのだろうか。

それもわからない。

わからないけど…
島村は、もうこの温泉郷には二度と来ないのではないかとぼんやり思う。



いや、一編のただの小説なのだ、小説なのだけれど、その後の駒子の心情、もし島村が来なくなって、行男もいなくて、葉子が…と考えるとき、なんとも言えない気持ちになる。



この長い長い余韻の残るところが、文豪川端康成の手腕であり、それが川端作品、川端マジックと言うべきなのかもしれない。


美しい日本語、美しい風景描写、だけではなく。
いま読むと大人の恋愛小説であることがやっとわかった。
相も変わらず川端康成恐るべし、なのである。