書家「矢萩春恵女史」ご本葬、 | 田沼敦子公式ブログ

田沼敦子公式ブログ

ブログの説明を入力します。

2024.6.11. 私にとってかけがえのないお一人、書家の矢萩春恵先生が亡くなられました。96歳でいらしたそうです。(←実年齢を知りませんでした・・・)

 

 

 

とても多くの方が参列され、会場に入りきらず、入口にテントを張ってそこに通されました。政界、財界、芸能界の方々とも交流が深く、教え子がたくさんおいででした。

来年竣工する豪華客船「飛鳥3」から依頼され、すでにお作品はお書きになられたとか・・・。

 

思えば、私が矢萩先生のお名前を知ったのは、たぶん私が高1くらいのときだったと思います。親が定期購読していた「女性週刊誌」の中に、小さい美しい「一文字」の連載を見つけたことからと記憶しています。「万葉仮名」を読みたいと思い、歯科医になってからご縁あって南青山の教室に少しだけ通いました。おそらく先生は40代? ものすごく艶やかで品があって、ほんの少しでもあやかりたいと思い、私のみならず生徒はこぞって先生がお好きなピンクや紫色の服を着ていました。

 

不思議なご縁としか言いようがないのですが、トーちゃんは書が好きで、また上手な人でした。(子どもの頃、近所のお寺で書を習っていたそうです)どういうご縁からトーちゃんと矢萩先生が出会ったのか全く知りませんが、かなり前から親しかったようです。「ボクは書を教わりに行ってたんじゃなくて、書ける場所がほしくてたまに行ってたんだ~」

 

トーちゃんと一緒になってから「あんた、矢萩さんとこ行ってたの?」(←それにしてはオメーみたいのは知らなかった・・・というニュアンスでした)独身女性が多い教室で、田沼氏は若い女性軍の「あこがれの存在」だった・・ということをほかの方からお聞きしました。(が、当の私はそんなことはまったく知らず、もつれにもつれた三角関係から抜け出せず必死であがいていました)

 

 

矢萩先生はトーちゃんの写真展やお祝いの席には必ずご出席くださいました。(先生は生涯独身でおいででしたが、私はある意味複雑な気持ちで、先生にお会いしてもなんだか落ち着かずしばらく気づまりでした。)先生の展覧会にトーちゃんといっしょに行ったことはなく、いつも一人で伺いました。2年前、トーちゃんが亡くなったとき、お弟子さんがた数名とおいでくださいました。トーちゃん「日本写真家協会」会長時代、会報誌の「年頭所感」に毎年色紙に干支を書で書いたものを載せていました。そのときの原画をお見せしたりして、和やかなひとときを過ごさせていただいたこと、忘れられません。