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あれこれ
 あれこれ考えている子は『自分の落ち着く場所』をみつけている。あれこれの中で自分のイメージを確定させようとしている。
 いろいろの中から「コレ!」となった瞬間、イメージが確定して落ち着く。   (平成八年三月例会)


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少しの失敗でも「負け組」にされてしまうという不安や恐怖があるためでしょうか・・・教育でも子育てでも「失敗しないように」と先回りした言葉がけが過度におこなわれているように感じます。
そうした空気を子ども達も読み取って、「自分でこれこれと考える」よりも、すぐにネット検索などをし、「パッと簡単にうまくいう方法」を探し求めようとしますよね。(大人もそうですが)
調べるのがすべて悪いとはいいませんが、まずは自分で考えてみてから調べて欲しいとは思います。問題解決能力がアップするチャンスを自ら捨てているようなものですから。
そして自ら考えて乗り越えるところに面白さ、真の達成感の喜びを感じ、さらなる壁を乗り越えていこうという力も湧いてくる・・・それが人間の活力になっいくのが、人間本来の自然な姿なんですよね。

ところが最近の風潮では、「迷う事」「失敗する事」がすべてダメな事とされるから、ネット検索で簡単な方法が見つからない場合に、「それなら自分で考えてみよう」ではなくて「じゃあいいや」と簡単に買煌てしまう人が増えてしまっています。
こうした場合の「あきらめ」は、本来の「あきらめ」とは別次元ですよね。

参考)3月16日の記事
「あきらめ」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12844571527.html


日本人の特徴の一つが「型の文化」であることは昔から指摘されています。
しかしそれは「型の通りやればいい」・・・今風にいえば「マニュアル通りにしていればいい」というのとは全く違うんですよね。
「仏作って魂入れず」
なんていう言葉の通りです。

先生が「古典芸能」や「儀礼文化」の研究をされていた大きな理由の一つはこのことだと思います。
先の語録でいえば 「コレ!」となった瞬間 があるかないか。

最初は言われた通り、定められた通りに型(所作)を繰り返す。この段階ではぎこちなさが残るわけですよね。
でもその中からやがて「ピタッと本当に型にはまった!」と感じる瞬間がくる。
学制時代の友人に日本舞踊の家元の息子がいるのですが、彼に言わせれば「その瞬間に役の魂が自分の中にはいってくる」んだとか。「憑依感覚ですよね。そして観ている観客の側でも演者ではない、本当にその存在がそこにいるのがみえるという感覚。
先生の著書「芸談の研究」の中の言葉でいえば「移り」と「成る」ということだと思います。

*この著書の中で先生は師匠である折口信夫先生の「日本の教育は 感染作用」といいう言葉について触れています。
ブログ「上原輝男記念会」 http://jigentai.blog.shinobi.jp
の今日の記事でそのあたりの抜粋をしています。
ただし、「芸談の研究」は先生の著書の中でもかなり難解なものと言われています。



昨日、ネット上にこのような記事があるのを目にしました。
「マクドナルドでおもてなし日本一に輝いた女性 13年間3店舗で磨きをかけてきた接客の極意とは…」
https://news.goo.ne.jp/article/tuliptv/bizskills/tuliptv-1064709.html

「極意」とは「お役さんに接する際の姿勢そのもの」、決して単なる「方法」ではないんですよね。
「お客様目線で常に考えること」から自然にその場その場に応じた対応ができるのだと。
しかもこの方は、もともとは接客が苦手だったそうです。
それがある時にフト大切なんことに気が付けた感覚になったようで・・・・

同僚の方が「マニュアルを超えて、自分自身で考えながら行動している」というように評しているのが印象的でした。

まさに「あれこれの中からの発見」ですね。
(上原先生の心意伝承の発想からすれば、これは自分の無意識の中にもともとあった感覚との出会い、ということになりましょう)


うまくいっている人をみると「あの人は才能があるんだ。自分はそういうのは苦手だから無理無理無理・・・」
となりがちな現代人。
一生懸命に努力したことが無駄になり、挫折するくらいなら、最初から苦手なことには手を出さないのが利口な生き方・・・

そうさせてしまっているのは、幼い頃からそうなるように育ててしまっている大人たちにも大きな責任があると思います。
子ども達や若者達が安心して「あれこれと考え、壁を乗り越える喜び」を得られながら毎日生活できるように「待つ」「見守る」という姿勢を大切にしたいものです。

*誤解しないでくださいね。「叱る」ことを否定しているわけではないですからね。
これも先ほどの接客の極意と同じで、しっかりとみていれば「今はきちんと叱った方がいい」という直感がはたらくと思います。


昨日のこのブログ記事で「遊び」について書きました。
本来の「遊び」の中には「あれこれ」がいっぱいつまっています。
そういう意味では、「最も大切な人間としての学び」こそが「遊び」といえます。

だから遊びの中にどれだけ「あれこれ」と迷う余地があるのかどうかが、重要なカギをにぎっているともいえるんですよね。
今風の「ゲーム」の中には反射的に反応できるかがばかりで「あれこれと迷う」が入り込む余地のないものも多いです。こうしたゲームばかりを幼い頃からやりすぎているように感じます。

それこそ乳幼児の子どもが自然に遊んでいるのをみれば分かりますよね。大人からすれば何が面白いのかわからないような同じことの繰り返しを夢中になっていつまでもやっている。
でも大人かれみれば同じことの繰り返しであっても、子どもにとっては「あれこれ」だから飽きがこないんでしょうね。
それが失われている子は、すぐに飽きてしまいます。遊び尽くせない。

特にルールが定められていない遊びの方が、あれこれがいろんなことで起こり、言葉にならないくらい多様な世界を広げていけます。

いわゆる「勉強」も同様です。
「・・・のために役に立つ」なんていう意識を持てばもつほど学べる事が狭くなってしまいます。
「なんだかおもしろい」というように好奇心の方向を自由に広げて「あれこれ」できる子は、学んだ知識が複雑にネットワークを築けるので、多様なものの見方・考え方、そして深い洞察力を獲得していきます。

東京に英才児を対象とした「聖徳学園」という私立学校があります。
上原輝男先生も設立に関わった学校です。
そこの子ども達は、作られた優等生とは全く違います。授業も多くの進学塾でみられるようなものとはだいぶ趣きが違います。

「あれこれ」を楽しむ子ども達なんですよね。
ベテランの数学の先生がおっしゃっていました。
「ここの子は、うっかりヒントを言ってしまうと教師の方が叱られるんです。
先生、せっかく考えて楽しんでいるんだから、それを奪わないでよ、って」

こうした姿勢は英才児だけの特権ではありません。
子供(人間)はみんなそうなのです。

英才児がちょっと違うのは乳幼児の頃からのそうした姿勢を大きくなっても捨てないところにあります。別の言葉でいえば「夢の世界」をしっかりと持ち続ける。
有名私立中学校の受験をする児童も多いそうですが、高学年になっても本人たちは、昨日書いたような意味でのこの世とは違う別世界で遊んでいる感覚で受験勉強もやっているんですよね。

英才児のそのような姿は、人間が誰でも本来持っているものを、どのように現実世界の生き方にもつなげていくかを示唆してくれています。
上原先生が英才児に注目していたのは、単に「優秀な子どもたち」だからではありません。

それも先生が生涯追いかけ続けた<日本人とは何か>ということです。

テストの成績を上げたい・・・だから無駄をはぶいて問題の解き方をいかに覚えさせるか・・・そんなことばかりを乳幼児期からさせている現代社会。
でもそれは本当の学力ではないから、最初は成績優秀というようにみえる子になっても、上の段階にいけばいくほど通用しなくなります。

*このあたりのことはまた機会を改めて・・・・・・

「あれこれ迷う事」を子ども達に保証してあげてください。
と同時に、大人も「あれこれを迷う楽しさ」を思い出してください。