晴耕雨読 -田野 登- -9ページ目

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

さすがの猛暑も、明後日9月23日彼岸の中日を控え、

朝夕は涼しくなり、吹く風に心做しか「秋」を感じます。

季節感の乏しい都会暮しにあって、「秋」を探しに、

拙著『水都大阪の民俗誌』の「秋」を検索しました。

秋祭り、秋の彼岸、秋の運動会、何処も彼処も同じですが、

「日々寸感」として、生業調査の時に見つけた

「秋」を挙げます。

聞き書きによりますと、

秋魚は9月から11月、秋野菜は9月から10月とか、

婦人服店での「秋物」は8月後半から10月前半までとか、

商品によって秋物の時季が微妙にズレるようです。

今年の秋刀魚「さんま」は豊漁とか報じられていますが、

生鮮食品の季節は旬の時期に合わせるのでしょう。

いっぽう、ファッション業界は、

真夏に秋物販売など季節を先取りしています。

季節の先取りとなれば、

松屋町「まっちゃまち」筋の造花問屋もそうです。

「8月も夏物販売で後半になると紅葉物販売が始まる」と

聴きました。

「紅葉物」とは業界では秋物を指す言葉で、

「紅葉」は「秋」の見立てであります。

大型量販店はじめ店舗の片隅にさりげなく、

飾られている造花の紅葉をはじめ、

赤・オレンジ色の提灯なども、

神なき「秋祭り」を演出しております。

「最初に秋物が出るのは、

キタの百貨店で特にファッション関係の

ショーウィンドーである」とも。

イミテーションばかりの都会にあって、造花問屋には、

季節を先取りして購買意欲を促す

仕掛けが此処彼処に陳列されていました。

箕面の滝の本物の紅葉は、ふた月先のこと。

はたして猛暑に耐えて、錦秋を彩るやら、

待ち遠しくも懸念する秋です。

今秋は、夏の疲れの熱中症に気をつけながら、

「見立ての秋」を探しに街歩きをするのも一興かも?

浦江のお寺の彼岸会に明後日参る名に負う田夫野人識す。

2025年9月16日、弥次喜多道中ならぬ東野利明会友(自称ヒガチャン)と二人、

大阪・関西万博に「異文化」を求めて歩きました。

「異文化」を求めながら、

「自文化」に気づかされた一日でもありました。

日頃の雑踏に巻き込まれ、はぐれてはスマホで落ち合い、

両人は、なんとか9時間の珍道中を終えました。

いつもながらヒガチャンとボクとは、同床異夢の道中でして、

それだけに、ヒガチャンから色んなことを学びました。

東ゲートを通過するのに大混雑で長時間、待たされた末、入場。

数少ない会場案内図前で言葉を交わしたのがベトナムの青年。1995年ハノイ生れとのこと。

「それやったらベトナム館を案内してくださいな」と

彼に注文し、3人で大屋根リングを潜ることになりました。

甲子園球場の藤の絡まるアールの掛った外壁を想像しましたが、

それほどの高さはないものの、木造建築としては壮観でした。

写真図1 大屋根リング

ベトナム館は生憎、満員で入場できず、

彼からのガイドは聴けず仕舞いでしたが、

隣のロボット館に入館しました。+

一時間ばかり、日本語で会話をした後、

名刺の交換をして別れました。

彼は上手な日本語を話しますが、

漢語の発音が微妙に違い、確認しながらの会話でした。

「万国博」とは異国の人との出会いの場でもあります。

ヒガチャンと二人になり、

どの国のパビリオンに入ろうかと話しましたが、

何処も彼処も満員で入館するにも長蛇の列。

我慢強く並ぶのが嫌なボクは

「大屋根リングの高い所から眺めよう」と提案しました。

高い所に登れば、雑踏から免れ、

林立するパビリオン群を下界と見下ろせます。

それに、大阪湾を見わたせば、

「須磨・明石、淡路島山、住吉の…」、

これは謡曲「弱法師(よろぼし)」の世界。

早速、給水とトイレを済ませ、リング上の道を、

反時計回りに進むことにしました。

北東を臨んで、白いアーチは、

舞洲に架る夢舞大橋、その左(西)には舞洲の緑。

写真図2 大屋根リングからの北東の眺め

やがてサウジアラビア館が眼下にみえてきました。

写真図3 大屋根リングからのサウジアラビア館

如何にも椰子の木が植わり、それらしき演出がなされています。

博覧会ですので、半年限りの仮設の見立ての世界です。

海風に涼味を感じながら歩を進めますと、

遥かに、明石大橋が幽かに見えます。

生憎、海上に立ち込める靄のため想像力をはたらかせねば見えません。

写真図4 大屋根リングから明石大橋の方面の眺め

ふと耳を澄ましますと虫の音「ね」が聞こえてきます。

人工島に感じる「自然」です。

報道される大屋根リングは、木組みのアングルばかりですが、

土手になっていて、一部花が植わりますが、一面、草むらです。

閉幕を控え、ヒガチャン曰く「あと何日のことでしょう」と。

彼の視線は、海上の新たなゴミ捨て場に向けられていました。

この人工島は万博が終われば仮設施設が撤去され、

カジノを含むIRを含む統合型リゾートの空間となるようです。

今回は、ボクなりのアングルで大阪関西万博を切り取りました。

浦江「鷺洲」の長屋住人による「夢洲」漫遊記は以上です。

 

今週の≪暮らしの古典≫のタイトルは「献辞」です。

「献詞」ともいいます。

とうといお方に自著をさしあげる時に添える言葉です。

写真図1 「献本」イメージ

折口にとって「とうといお方」とは? 

もしかして「てしほにかけた甥」と呼んだ「叔母えい」

そうです。折口は「叔母えい」に「献辞」を添えて献本しています。

 

前回「並々ならぬ愛情を注いでくれた叔母えいとの関係を端緒として

折口晩年における「妣の国」解釈を考えてみることにします」と予告しました。

折口にとっての叔母えいが如何なる存在であったかを考えるに先立って

叔母えいの生立ちを*「折口家年表」から抽出します。

 *「折口家年表」:中村浩『若き折口信夫』中央公論社1972年「折口家年表」

◆明治5年10月(また1月)7日(1872) 折口美津、彦七三女として出生。…

◆明治12年頃(1879) 美津、ゑゐと改名。

 

叔母「えい」は「美津」が改名されて「ゑゐ」となり、

「お栄」とも「えい子」とも称されています。

折口より15歳年長であります。

因みに、折口信夫は母こう数えで30歳の子です。

次に「折口信夫略年譜」に叔母えいの名が見えるのは、

前回、取り上げた7歳時の「済生学舎」への遊学でありました。

遊学後の叔母えいの信夫とのやりとりの記事は

折口晩年の1949年*「留守ごと」に見えます。

 *「留守ごと」:「留守ごと」『折口信夫全集33』319頁、1998年、中央公論社、

初出1949年4月『暮しの手帖』第3号

◆東京帰りの若い叔母が、英語の単語を教へてくれたり、

いそつぷあたりの動物比喩譚を聞かしてくれたりした、

その頃を思ひ出すと、まだ十歳(トヲ)になつてゐる筈のない私である。

でも、教つた(ヲソハーー)英語や、話を覚えてゐるばかりではない。

さう言ふ時の叔母の東京弁をまじへたあくせんとや、

身ぶりまでも、思ひ出すことが出来るのである。

 

まるで洋行帰りのハイカラ女性のようです。

写真図2 「はいからさん」イメージ

周囲の眼差しや如何?

とりわけ叔母えいの姉でもある信夫の母・こうの心境や如何?

引用を続けます。

◆母などは、時々不愉ぬ(ウカー)顔をして、

「お栄(―エイ)さんは、耶蘇教になつて来たのやないか知らん」など言ひ」/\して、うんと教養の高きにゐる妹には言ひきれない抗議を、

そんな気の弱い陰口ともつかぬ語に洩らしては、

又新に気にかゝる、と言ふ風にしてゐた。…

 

実の母をして嫌味を言わせたほどの叔母えいによる自分自身への手厚い接し方を

晩年の折口は回想しているのです。

その後、折口「年譜」の叔母えい済生学舎入学から数えて7年後の

信夫17歳時の記事に「叔母えい」が見えます。

明治37年(1904) 17歳/3月、卒業試験に失敗し落第。

4月、祖母つた・叔母えいと大和飛鳥に旅行。夏、

4泊の大和旅行。室生寺奥の院で自殺を試みた若き日の釈契沖を想起し、

その誘惑に駆られる。

 

この大和飛鳥旅行は*「自撰年譜」には、叔母の取り計らいが読み取られます。

 *「自撰年譜」:「自撰年譜一」『折口信夫全集36』2001年、中央公論社、

初出、1930年9月「改現代短歌全集 第13巻 釈迢空集」改造社

◆明治37年/卒業試験落第。4月、

叔母えいの気づかひで、祖母おつたとえいとの三人で、

大和当麻・吉野・飛鳥に旅し、父の代から絶えた飛鳥家との旧交を復する

夏、大和へ一人旅。東、室生寺まで行く。四泊。

 

「父の代から絶えた飛鳥家との旧交を復する」とあります。

これを機に信夫は飛鳥坐神社神主家と交際し、祖父・造酒ノ介とも繋がりました。

叔母えいの気づかひで」とあって叔母えいが取り計らったのです。

因みに國學院受験時の叔母えいの「いやな記憶」を聞かされたと回想されるのは、

その翌年秋のことです。

「年譜」から確認します。

◆明治38年(1905) 18歳/(上略)3月、

大阪府立天王寺中学校卒業。9月、

家人の意向とは別の新設の國學院(東京飯田町)大学部予科1年入学。…

 

此処まで読み込んでみて、改めて國學院入学時の叔母えいの「てしほにかけた甥」という

言葉を読み返しました。

『広辞苑 第七版』 ©2018 株式会社岩波書店「手塩」に

「自らめんどうをみて大事に育てた」があります。

明治半ばの当時であっては、母親であっても可笑しくない、

15歳年上の叔母の偽らざる心情であったと推察します。

 

東京遊学から帰った叔母えいは、折口家では、ひときわ輝いていたようです。

「折口家年表」に引いた*『若き折口信夫』を引用します。

 *『若き折口信夫』:中村浩『若き折口信夫』中央公論社1972年「木津折口家」

◆東京遊学から戻った叔母ゑゐが、

この店*(毛糸・足袋・黒砂糖などを売る)の方を一手に仕切り、

のちには近くの娘たちに、商売の傍ら、毛糸編みを教えていた。

 

西から東へ医院・薬店・東店と連なっている屋敷の一画を

叔母ゑゐ(えい)が仕切っていました。引用を続けます。

◆もっとも、父秀太郎の没後(明治35(1902)5月3日)、

折口家は社交のうまいゑゐが、東店だけでなく、

折口家の家計すべてをやりくりしていた。

兄弟の中でも特に目をかけられた信夫などは、

母よりも叔母ゑゐの方を万事において頼りにしたし、

折口家のために「嫁かず後家」(ゆかずごけ)になり果てたゑゐに、心から感謝していた。

 

その叔母えいが世話焼きであった側面も「木津折口家」から読み取られます。

◆(ゑゐは)容貌もいちばん人好きのする愛らしさをもち、明るくて

世話好きで、折口家の社交係のように、

自分は一生嫁かず後家で終ったにもかかわらず、

人の縁談や就職や金銭問題など、わけても自分の気に入りの者、

たとえば信夫や福井融や静の娘の澪や上野ひでらのためには、

わが子わが孫のように、遠近繁簡を問わず奔走した。

 

折口は42歳にして『古代研究』(昭和4年*(1929年4月刊))を上梓しました。

その際、その著の巻頭に「折口えい子」の文字が見えます。

『折口信夫全集2』1995年、中央公論社「解題」を引きます。

◆一、第二巻には、『古代研究』第一部 民俗学篇第一を収めた。

一、『古代研究』は、まず民俗学篇第一が昭和4年4月10日、

大岡山書店から刊行された。(中略)

(開巻)次頁中央に9ポイント活字縦書き2行に、

「この書物は、大阪木津なる、折口えい子刀自に、まづまゐらせたく候。」との

献辞が記されている。

 

漸く、タイトルの「献辞」が見えました。

「献辞」という言葉につきましては本ブログ≪恵存≫に触れました。

次回144話は、献辞に込められた「叔母えい」との関係を軸に、

「母」を「祖」と解釈する折口「妣の国」論の物語性を取り上げます。

 

究会代表

新いちょう大学校講師 田野 登

 

「初蝉」に寸感を寄せて、早や二月。

猛暑や酷暑と云われた今年の夏も過ぎぬとしています。

「暑さ寒さも彼岸まで」のお彼岸まであと一旬。

緑に乏しい河内の市街地に住む者の耳にも虫の音(ね)が

幽かに聞こえて来ます。

鈴虫や鉦叩きなどではありません。

それは蟋蟀「こおろぎ」の音です。

早朝から、お勤めをしているように聞こえます。

一の字すら読めなかった祖母が打つ

拍子木の音に聞こえてきます。

「一心頂礼 万徳円満 釈迦如来…」

今のボクが毎朝、三遍唱える「舎利礼文」です。

その祖母は昭和36年4月春彼岸に73歳で他界し、

その名も「一心寺」の

骨ホトケの一かけらとして納まっています。

浦江の長屋の朝は、何所の家からも、

ホトケさまへのお勤めや、

神さまへのお祓いで始まりました。

隣近所から、祈りの声、柏手を打つ音、

鉦や鈴「りん」の音が聞こえてきました。

おのおのの家によって宗旨宗派が違いましたが、

同じようにお勤めをしていました。

ボクが蟋蟀の声を

祖母の打つ拍子木に聞こえるのも

浦江の長屋で育まれた耳を持っているのかも知れません。

拍子木に合わせて「あん」をしたボクも

齢は、とうに祖母を越しました。

お彼岸には、

角のおうちからオハギをいただいたりもしました。

今ここに昭和の長屋暮らしを懐かしむボクがいます。

はたして今年の秋の彼岸は

妻の手を引き浦江の寺に、お参りできるやら?

浦江の長屋を発ち名のみの田夫野人之を識す

私の日常は、

幾つかのメディアからの情報を取り入れて生きています。

目覚めた時には「

ラジオ深夜便」から「9月の雨」が聞こえてきました。

今日は9月の9日。

重陽の節句の日とか?

4時台は、新聞に目を通します。

石破首相退陣で、来月4日に自民党総裁選挙とか。

タイガースの優勝に一斉セール。

見出しに目を通して、新聞紙全体から情報を通覧します。

今朝は目を通しただけで、詳しくは読まなんだ。

5時台はテレビの情報番組を見る時間。

チャンネル4から始めて6に10に、7時前に2に。

チャンネル4MBSはTBSテレビ系列。

東京からの報道ばかりで大阪情報が欲しくて6チャンネルABC。

相変らずのタイガース出身のコメンテーターは、

よく「勉強」していますね。

「野球人生」を送ってきたはずが…。

コロナ禍以前は、

在京のコメンテーターも交えて多彩でありましたが、今や…。

新聞拾い読みを見て、10チャンネルにの「す・またん」。

昨朝は

タイガース優勝の余韻でサンバを踊ったりで大騒ぎでしたが、

今朝はいつもの「す・またん」でした。

6時59分にはチャンネル8KTVの「めざましテレビ」の星占い。

今日のやぎ座は、努力が報われるとか?

すかさず、10チャンネルに戻って、

野村明大の辛口の「これしっとく??」で

歯に衣着せぬ論調で朝の目覚め。

今朝は、麻生自民党最高顧問絡みで思わせぶりなお話でした。

エンタメには関心がなくて、7時前には2チャンネルに。

天気予報と7時のニュース。

見とかなあかんと思って見ていますが、

「朝ビズ」になれば,経済のことは

分からないのでテレビを切って、

2階で「舎利礼文」を3遍唱えて食事。

再び、NHKラジオ。

ラジオ、新聞、テレビときて、スマホはいじらへんの?

テレビのエンタメ情報の時、今朝注目の話題は?

何やったんでしょう。

どのメディアからの情報も右から左へ。

スマホで手ごろに知ることが出来る時代ですが、

慎重にせねば。

 

浦江の破屋を立って40数年、名字は田夫野人