今週の≪暮らしの古典≫のタイトルは「献辞」です。
「献詞」ともいいます。
とうといお方に自著をさしあげる時に添える言葉です。
写真図1 「献本」イメージ

折口にとって「とうといお方」とは?
もしかして「てしほにかけた甥」と呼んだ「叔母えい」?
そうです。折口は「叔母えい」に「献辞」を添えて献本しています。
前回「並々ならぬ愛情を注いでくれた叔母えいとの関係を端緒として
折口晩年における「妣の国」解釈を考えてみることにします」と予告しました。
折口にとっての叔母えいが如何なる存在であったかを考えるに先立って
叔母えいの生立ちを*「折口家年表」から抽出します。
*「折口家年表」:中村浩『若き折口信夫』中央公論社1972年「折口家年表」
◆明治5年10月(また1月)7日(1872) 折口美津、彦七三女として出生。…
◆明治12年頃(1879) 美津、ゑゐと改名。
叔母「えい」は「美津」が改名されて「ゑゐ」となり、
「お栄」とも「えい子」とも称されています。
折口より15歳年長であります。
因みに、折口信夫は母こう数えで30歳の子です。
次に「折口信夫略年譜」に叔母えいの名が見えるのは、
前回、取り上げた7歳時の「済生学舎」への遊学でありました。
遊学後の叔母えいの信夫とのやりとりの記事は
折口晩年の1949年*「留守ごと」に見えます。
*「留守ごと」:「留守ごと」『折口信夫全集33』319頁、1998年、中央公論社、
初出1949年4月『暮しの手帖』第3号
◆東京帰りの若い叔母が、英語の単語を教へてくれたり、
いそつぷあたりの動物比喩譚を聞かしてくれたりした、
その頃を思ひ出すと、まだ十歳(トヲ)になつてゐる筈のない私である。
でも、教つた(ヲソハーー)英語や、話を覚えてゐるばかりではない。
さう言ふ時の叔母の東京弁をまじへたあくせんとや、
身ぶりまでも、思ひ出すことが出来るのである。
まるで洋行帰りのハイカラ女性のようです。
写真図2 「はいからさん」イメージ

周囲の眼差しや如何?
とりわけ叔母えいの姉でもある信夫の母・こうの心境や如何?
引用を続けます。
◆母などは、時々不愉ぬ(ウカー)顔をして、
「お栄(―エイ)さんは、耶蘇教になつて来たのやないか知らん」など言ひ」/\して、うんと教養の高きにゐる妹には言ひきれない抗議を、
そんな気の弱い陰口ともつかぬ語に洩らしては、
又新に気にかゝる、と言ふ風にしてゐた。…
実の母をして嫌味を言わせたほどの叔母えいによる自分自身への手厚い接し方を
晩年の折口は回想しているのです。
その後、折口「年譜」の叔母えい済生学舎入学から数えて7年後の
信夫17歳時の記事に「叔母えい」が見えます。
◆明治37年(1904) 17歳/3月、卒業試験に失敗し落第。
4月、祖母つた・叔母えいと大和飛鳥に旅行。夏、
4泊の大和旅行。室生寺奥の院で自殺を試みた若き日の釈契沖を想起し、
その誘惑に駆られる。
この大和飛鳥旅行は*「自撰年譜」には、叔母の取り計らいが読み取られます。
*「自撰年譜」:「自撰年譜一」『折口信夫全集36』2001年、中央公論社、
初出、1930年9月「改現代短歌全集 第13巻 釈迢空集」改造社
◆明治37年/卒業試験落第。4月、
叔母えいの気づかひで、祖母おつたとえいとの三人で、
大和当麻・吉野・飛鳥に旅し、父の代から絶えた飛鳥家との旧交を復する。
夏、大和へ一人旅。東、室生寺まで行く。四泊。
「父の代から絶えた飛鳥家との旧交を復する」とあります。
これを機に信夫は飛鳥坐神社神主家と交際し、祖父・造酒ノ介とも繋がりました。
「叔母えいの気づかひで」とあって叔母えいが取り計らったのです。
因みに國學院受験時の叔母えいの「いやな記憶」を聞かされたと回想されるのは、
その翌年秋のことです。
「年譜」から確認します。
◆明治38年(1905) 18歳/(上略)3月、
大阪府立天王寺中学校卒業。9月、
家人の意向とは別の新設の國學院(東京飯田町)大学部予科1年入学。…
此処まで読み込んでみて、改めて國學院入学時の叔母えいの「てしほにかけた甥」という
言葉を読み返しました。
『広辞苑 第七版』 ©2018 株式会社岩波書店「手塩」に
「自らめんどうをみて大事に育てた」があります。
明治半ばの当時であっては、母親であっても可笑しくない、
15歳年上の叔母の偽らざる心情であったと推察します。
東京遊学から帰った叔母えいは、折口家では、ひときわ輝いていたようです。
「折口家年表」に引いた*『若き折口信夫』を引用します。
*『若き折口信夫』:中村浩『若き折口信夫』中央公論社1972年「木津折口家」
◆東京遊学から戻った叔母ゑゐが、
この店*(毛糸・足袋・黒砂糖などを売る)の方を一手に仕切り、
のちには近くの娘たちに、商売の傍ら、毛糸編みを教えていた。
西から東へ医院・薬店・東店と連なっている屋敷の一画を
叔母ゑゐ(えい)が仕切っていました。引用を続けます。
◆もっとも、父秀太郎の没後(明治35(1902)5月3日)、
折口家は社交のうまいゑゐが、東店だけでなく、
折口家の家計すべてをやりくりしていた。
兄弟の中でも特に目をかけられた信夫などは、
母よりも叔母ゑゐの方を万事において頼りにしたし、
折口家のために「嫁かず後家」(ゆかずごけ)になり果てたゑゐに、心から感謝していた。
その叔母えいが世話焼きであった側面も「木津折口家」から読み取られます。
◆(ゑゐは)容貌もいちばん人好きのする愛らしさをもち、明るくて
世話好きで、折口家の社交係のように、
自分は一生嫁かず後家で終ったにもかかわらず、
人の縁談や就職や金銭問題など、わけても自分の気に入りの者、
たとえば信夫や福井融や静の娘の澪や上野ひでらのためには、
わが子わが孫のように、遠近繁簡を問わず奔走した。
折口は42歳にして『古代研究』(昭和4年*(1929年4月刊))を上梓しました。
その際、その著の巻頭に「折口えい子」の文字が見えます。
『折口信夫全集2』1995年、中央公論社「解題」を引きます。
◆一、第二巻には、『古代研究』第一部 民俗学篇第一を収めた。
一、『古代研究』は、まず民俗学篇第一が昭和4年4月10日、
大岡山書店から刊行された。(中略)
(開巻)次頁中央に9ポイント活字縦書き2行に、
「この書物は、大阪木津なる、折口えい子刀自に、まづまゐらせたく候。」との
献辞が記されている。
漸く、タイトルの「献辞」が見えました。
「献辞」という言葉につきましては本ブログ≪恵存≫に触れました。
次回144話は、献辞に込められた「叔母えい」との関係を軸に、
「母」を「祖」と解釈する折口「妣の国」論の物語性を取り上げます。
大阪民俗学研究会代表
新いちょう大学校講師 田野 登